だそうな。容疑はあちこにちに書かれているので読めばよかろう。人の生き方に思うところは同じ人間として述べるが、指図をする気はない。その人が不幸になるのもその人の選択であり、自殺をするのも個々の自由選択であるようにだ。人は誰も自分にふさわしい生き方を模索し、実践し、努力をするが、「幸福の探求」というのは、「自由の探求」ではないかと経年で考えるようになった。そこで「自由」についての誤った解釈と、正しい自由について改めて自らの考えを述べてみる。

思えば子どものころからどれだけ「自由」ということに憧れていたか。自由のない家庭環境から、何とか自由を得たいと、そのためには自由を阻害する母親と戦うしかすべはなかった。幸いにして牢獄につながれた囚人が如きではないので、家の敷居をまたいで一歩外に足を踏み出せば、鬼親からの監視は途絶えた。だからか、夕食の時間を忘れるほどに暗くなっても遊び呆けていた。友だちの多くは家路に急ぐので、一人減り、二人減り、三人減って自分一人になっても家には帰らなかった。

 



どこぞの親のように探しにくることもなく、呼びに来ることもなく、それら自分にとって家にいないことが何より幸福であったということ。「幸福」とは、自分の欲望が自由の中で充たされて行く感じであるから、「幸福の探求」というのは「自由の探求」ということになる。子どもは親の保護下にある以上、多くの部分で自由を制限されている。「欲しいものがなんでも手に入り、食べたいものを食べたいだけ食べれて、ものごとがすべて自分の思うように運ぶならどんなにいいだろうか?」

こんなことは子どもの誰もが考えること。そうした子どもの夢を叶えてくれる童話が「お菓子の家」だった。作り話であるけれど、お菓子の家の実感にどれだけ憧れたことだろう。戦後も間もない食べ物のない時代にあって、山や野にはたくさんの果実や木の実にあふれていた。お菓子の家はどこにもないけれど、口に入るものならためらわずに食べたし、芋畑を荒らしてお百姓さんに追いかけられたこともあった。そうとは知らずに渋柿を「ガブリ」とやって失敗したなどは頻繁にあった。

 



自由になんでも手に入れば幸せとは思いつつ、お店の物を万引きしたり、他人の物をせしめたりという邪悪な心は一切起きなかった。理由は、人の物は人の物、お店の物はお金を出して得るものという基本的で当たり前の考えをもっていた。もしもそういう子どもがいたのなら、子どもに非ざる邪悪な心を持った子どもであるに違いない。そういう道徳心がどこでどう育まれたのか分からないが、手に入らないものは我慢をする以外になく、一線を越えるなどはそれはもう純粋無垢な子どもではなかった。

だから、現代の子どもたちが簡単に万引きするのをどうにも理解ができない。よくもまあお金を出さずに自分のものにしようなどと、そのことが理解できない。「欲しければ買い、お金がなければ我慢する」という単純な二元論である。他人の目の問題ではなく、自身が自分を監視していればいいことだ。ましてや、お金がありながら万引きする大人の心情たるや、永遠に分からぬ世界である。「できごころ」という言葉がある。計画的でなく、その場で急に起こったよくない考え。という意味だそうだ。

 



「もののはずみ」ともいうが、しっかりした意識や考えをもって生きていない人間というしかない。万引きの論理は分からないが、一つの仮説としてこういえるのではないか?社会的に「万引きはしてはいけないこと」とされている。「してはいけないこと」だという前提のうえで、「してはいけないことを行為する場合、そのことを自身がどう正当化し得るのか?」である。ここには善と悪のせめぎ合いという葛藤がなされる。その衝突のなかで、悪が勝利するのはいかなる理由であるのか?

それは自分にとって「きもちいいこと・ここちよいこと」、即ち「快」であって「快」とは、欲求が満たされて足りた状態といってもよい。自分が想像し得る「万引き」という行為には、慢性的な常習者は別にして「得をした」という快感があるのではないか。なかには、おどおどし、ビクビクの精神状態で行う者もいるだろうが、短絡的に結論づけるなら、「万引き=快」ではないかと。反対に万引きをしない人間は「万引き=不快」という図式であり、おどおどしながらの万引きも不快である。

そんな不快な万引きをするくらいなら、「代金を支払う=快」となる。「スリルが味わえてたまらない」という人間もいるのだろうが、危ない橋はいつかは落っこちるに決まっている。その日までの「快」を刹那的に楽しむのだろうが、いつしか万引き常習犯として烙印を押される日もこよう。さて、幸福といえば女性にとって結婚といわれている。近年は独身主義者も珍しくないが、「幸せな結婚=最大の幸福」を信じる女性は少なくない。そこで「どんな相手が自分を幸福にしてくれるのか}と問う。

「やさしくて明朗で理解力があり生活力もあってイケメンで長男でなくて…」などとおつりがくるほど注文が多い。自分はそれにいちゃもんをつけた。「すべてがもっともとして、次の疑問にどう答えるのか?」①そういう相手をどうやって見つける?②そういう相手が見つかっても果たして自分と結婚してくれるのか?③前の二つの関門を突破して結婚したが、自分のメガネに狂いはなかったと断言できるのか?これらは全部「たら」であるが、どうして、結婚というのは最大の「たら」ではないか。

 

 

「メガネに適った相手でなくてもいい結婚、いい夫婦はいるからね。メガネが違っていて、不幸になる女性もいる」。『理想と現実』というのはいつの時代にもいわれるが、女性にそういう意識があるかないかということだ。運・不運によって左右されるような幸福、相手の出方次第で決まっていくような幸福は、相手の出方が変わればたちまち失われてしまう。橋本崇範氏を引き合いにだしたが、幸福を相手から恵んでもらおうと不満をいい、相手を詰り、侮辱し、誹謗し、勢い余って逮捕されてしまう。

彼は幸福欲しさに自分で自分の自由を踏みにじって刑事罰を受けることになる。万引きという幸福の在り方が間違いであるように、幸福の原点は対象物への対価を支払うこと。「自由のないところに幸福はない」といった。しかもその自由とは、周りの事情から保障されることを宛にしてゆくものではなくて、自分の生き方の中に本人が確立してゆくものであるべきもの。自由が周りの事情から保障されているとき、われわれは幸福を味わうことができる。そのためには相手から愛を供与されることだ。

労わってもらえるとき、自分の願いが叶えられるとき、人は幸福を感じる。「周りの事情」なんてどうでもよいということではない。ある日対局から帰ると妻が子どもと消えており、「一緒にいたくない」という書置きがあったという。そこからどう修復すべきだったかであり、チャンスはあったろう。そういう女は捨てる手もあった。橋本氏が上手い次の一手を繰り出せなかったことが問題だが、自ら選んだ不幸への道程である。棋士は自己責任の世界。誰にもどこにもいって行くところはない。