夫婦を客観的に捉える。あるいは主観的に捉える。夫婦といえ、個々の性格が反映される以上決まった夫婦の形はない。「共に協力し合ってやっていくべし」というのが客観的表現の代表のようだが、なかなか現実は難しい。「夫婦は対等である」とは、どういうことをいうのか。「対等な発言」といっても、弁舌も能力である以上、言葉の量と能力は別。夫婦によっては、大人と子どもほどの違いもある。そうはいっても、「一寸の虫にも五分の魂」。「バカは黙ってろ!」などというべきではない。

最近、そのことを将棋で感じている。どんなに弱い人でも、相手から指摘された指し手に納得せずに歯向かう。「自分はこっちがいいと思う」と、明らかに悪い指し手を頑固に譲らない自尊心をみせる。上位者の指摘する好手を、好手と判定できる棋力がないということもあるのだろう。「いいものをいい」と認識できるのも、能力ということになる。愚妻の言い分を夫が聴きながら、「バカなことをいう奴だ」と思っても、妻はそれが正しいと思っているなら説得はできない。果ては喧嘩になるのか?

 

   

45年に及んだ自分の結婚生活は「夫唱婦随」であった。それが夫婦の土台と考えていた自分は、それにふさわしい相手が必要と考え、そして見つけた。だからか、トラブルめいたことは一度もなかったが、子や孫への志向が強くなった妻は、社会規範を主軸に考える夫へ反発を始める。そんな妻をみながら、女にとって我が子、我が孫が生きるすべてかと感じた。男には理解できかねる女の性とはこういうものか。ならば、夫婦が真に夫婦であるべきかどうかを考える時期が差し迫っている。

考えて出した答えは、個の重視だった。二度とない人生をよりよく生きるには、夫婦でいる必要はない場合もある。それが個人主義型欧米の離婚だ。「結婚とは、まっくら闇の中で、男と女が、おでこを鉢合わせするようなもの」と、漱石はいった。「夫婦とは実に偶然的なでたらめなもの」との意味だが、あくまで新米夫婦のこと。40数年も経てば暗闇で鉢合わせもない。右往左往もない。替わりに新たな生き方がそれぞれに芽生える。ならば各々が独立して好きなように生きる選択もある。

人間の基本は「個」であろう。個に始まって個に戻るのが自然の摂理かと。自分が求める賢妻とは、夫の仕事や趣味・道楽への理解だった。主導で力を発揮する自分の性向を不満とする女性は、恋愛はともかく、結婚に向かないと決めていたので、女の主体性は自分には不要だった。「それでは私は何なのよ」という女は、自らに見合う相手を探せばよい。もしくは一人で自由に生きるもよい。互いが水と油を描いた一本の映画がある。主義の異なる結婚生活は続行不能と二人は離別する。

1974年に公開の『追憶』は、ポジティブな離婚を描いた秀作だ。主人公のケイティは理想主義的左翼思想に傾倒する女子大生。ふとしたことから同じ大学のハベルとつきあうことになったケイティの女性的ないじらしさ、可愛さが評判になった。二人は結婚し、ハベルは新進作家としてデビュー。彼を後押しして陰で支えたのがケイティだった。ケイティの政治思想はその後も消えることがなく、ハベルはケイティの理想主義に疲れを見せ始める。ハベルは、ケイティとの生活を終えるために浮気をする。

 

 

Barbra Streisand - The Way We Were - YouTube

ハベルの確信的行動で二人は離婚するが、ケイティは妊娠中だった。無事に女児を出産するのを見届けてハベルはケイティの元を去る。時が経ち、ケイティはニューヨークで妻と一緒のハベルを偶然見かけて声をかけた。相も変わらず路上で政治活動を続けるケイティにハベルは近寄る。ケイティは娘の成長を告げ、夫婦で家に遊びにきてという。「それはできない」と、互いの聖域を守る大切さを暗に伝えるハベル。二人は抱擁の後にその場で別れた。このラストシーンは言葉で表現できない。

主義や主張、生き方の違いは人の常。それを守る大切さを描いている。「子どものために別れぬ方がいい」という考えは一面正しい。が、別の側面もある。思想の違いで別れるなとど、若き自分には理解できなかった。結婚は耐乏で成り立つと思っていた。ある時、「恋愛は美しい誤解である」という言葉を見つけた。その意味するところも分からなかったが、この映画になにがしかヒントを得た。男と女はふと互いの美しさを発見し、互いに好意を抱き、互いに深く理解をした…つもりでいる。

 



「つもり」とは、多くの見落としがあるということだ。青春期は、性の欲望も強いがゆえに愛と性を混同する。若き男と女の結婚は、「美しき誤解」でなされている。そう考えると、映画の根底にある美しさを理解できる。離婚は不幸でもない、人生のつまづきでもない。人はひとたび伴侶を得た以上、死ぬまで添い遂げなければならぬという取り決めもない。誤解は過ちではないが、過ちとの認識もできる。大事なことは、惰性の人生を送るか、心新たに別の人生を求めるか。離婚はその契機となろう。

パスカルの以下の言葉に教えを乞う。「人が愛から思惟の名を取り除いたのは誤りであった。人が愛と思惟とを対立させたのは正しい根拠を以ってではなかった。なぜなら、愛と思惟は同一のものに他ならないからである」。思惟とは、「対象を心に浮かべてよく考えること」。さすがに「人間は考える葦である」のパスカルである。「詩人が愛を盲目のように描くのは正しいことではない」と、彼は釘をさすが、詩人は哲学者ではない。詩人という感性を売る人たちだから、詩人にも言い分はあろう。

 



「恋愛は盲目」という。これは確かなことで、恋愛が盲目者の如く、永遠に盲目であるならそれもよかろう。ところがわれわれは一時的な盲目者である。いつしか盲目であることに気づいた時に不幸が襲ってくる。「愛することと考えることは同じ」と、パスカルはいうが、結婚対象相手は、知的明晰さにおいてしかと見なければならない。しかるにパスカルは、その明晰さゆえに生涯独身を過ごすことになる。「選り好みする女性は結婚できない」といわれるが、選り好みといってもその中身にもよる。

はたして、相手の容姿、収入、資産状態は思惟といえるのか。ある人にとってはそう、別のある人にとってはそうでない。恋愛に重要なのは、「精神の明晰さ」ではないのか?なぜなら、精神の明晰は、情念の明晰を引き起こすことになるからだ。結婚相手を思惟すれども、人間は完璧でないので妥協も必要。「完全主義者」などというが、この世に生きる以上、「妥協ナシ」などあり得ない。「見合い結婚」が推奨された時代、「(お見合い)結婚後に恋愛しなさい」というのが説得の殺し文句だった。

何も知らない男女が、少しづつ相手を発見していく過程は、まさに恋愛そのものだが、お見合い結婚否定の女性の本音は、「好きな人に抱かれたい」であった。それは理解できる。男の自分でさえ、好きでもない女を欲情で抱くことはできても味気はない。現代は恋愛結婚が主体である。だからか、カップルの多くは結婚した後に失恋をする。「結婚後に恋愛する」と、どちらがいいのだろうか?良くも悪くも、恋愛結婚隆盛の時世に、「見合い結婚後に恋愛しなさい」などは誰も耳を傾けない。