おえんしゃまはなぁ・・・年の頃の十七、八じゃいろ、二十ニ、三じゃいろ、若衆の後姿を見かけたらな「兄(あん)しゃま!」て云うて呼びかけおらした。
呼ばれた者が「おえんしゃまな、びっくりした」と云うたらな、しおしおして後ろ向いて往ってしまいおらした。
あんまりに小愛らしい声でな・・・他のことは何も云わず、時々唄のごたる風なものを云わすばかり、お洒落さんだった。
年を聞けば「二十三でございますと」と丁寧な天草言葉でお辞儀をしおらした。侍の様組の娘さんだったっちゅう。
西郷さんのいくさの通らす前にな、侍の無しになる世の中の来るちゅう噂のありよったけん、親御さまの侍組の株ば売らしたげなもん。母親は早くからおんなさらんかったで、殿様のところに奉公に出すって云うて売られてしまわれらしたげなもん。
長崎の遊郭(丸山)ならば、目鼻の先で都合悪かったのやろう、遠く熊本の二本松あたりだかどこか売られなさった。おえんしゃまには婿殿が決まっていたそうだが。
ところが、お客さんに噛みついてばかりおったので、よほど遊郭があわなかったのか気を病んでしまい、金にならないものだから、とうとう食い扶持損となって捨てられてしまった。
傍目にはそのように見えないので、悪い男も目をつけておったが、おえんしゃまに懐いておるこん白犬が飛びかかってくるようになってなかなか寄りつけなかったそうな。
どうして、通り難うあらす山道をどうやってされて(歩いて)山越えしてこらしたもんか、この五郎(白犬)が連れて来たっじゃろうな。何を聞いてもな・・・
ととさんかかさん
親に意見じゃないけれども
西のくろさは雨とみる
東のくろさは雪とみる
これが、おえんしゃまの返事だった。
子どもの如して、しおらしいものだから、みんなに可愛がられて、飯やらもらい、服もボロになれば、芸妓からいらぬ服を貰うて、それをぞろびかせて(ずるずる引きずって)着ておられた。
西郷さんのいくさの初めて通らした時もな、いくさの行列を見に来て「兄しゃま、兄しゃま」て口のうちにブツブツ云うてついて行かれたと。いくさの足にはついていききらんじゃろうといううちに、随分して戻ってきなさった。
おえんしゃまの仕事は水浴びだったそうで、冬の冷水の中にも這入りおらした。もう一つは何のつもりか、指輪ぐらいの藁すぼで結うた輪っかをこしらえては、道の端に結びおんなさったと。村の人も、それを山道案内の印にしておった。
山ん中に入った人は、偶に、おえんしゃまの唄が響いておったのを聞いていたそうな、山の神様も聞いておられたろう。
死んだあとになって、おえんしゃまの輪っかをかけておらしたあとには、たくさんのナバ(きのこ)が生えとったって。
五郎の死んだあとは、おえんしゃまは哀れなもんだった。
のちには海辺にやってきて、ふたりで海を見て暮らしておらした。海むこうが天草とわかるのだろう。
冬に五郎が死んだもんで・・・馬鹿共が悪さして、おなかのおかしゅうなっとる噂だった。
町にはもう来んで、やせてやせて操り人形が操られるごとして岩の上を這って、水を飲んでる姿を船ん衆等が見かけたげな。
次の冬ん年、雪の降った朝の事、おえんしゃまは海辺に浮いて死んでおらしたそうな。赤子は鱶にでも食べられたのか目掛からんかった。
※(石牟礼道子著「西南役伝説」拾遺二 草文 より)要約しました。
省略した流れもあることと、原文とは異なる言葉で書いているところもある点、ご了承願います。
