内の海と外の海の交差する水の底は起伏も激しい巌の姿
ひと時も同じ顔はなしひと時も休む姿はなし絶え間なく
たちばなの海は顔に日の出を映し黄金の日の入りを映す
海を見渡し大地を見渡すと五色の恵を受け継ぐところぞ
美しき海・・・とはいえど、有明海や橘湾は、底質の泥化や有機物の堆積等による海域の環境悪化によって、赤潮が発生する等の環境問題が出ています。この問題は数十年前からいわれてきたことでして、「有明海及び八 代海を再生するための特別措置に関する法律」が2002年にようやく成立しました。
対策としては、水質保全の為に海に流す排水の浄化や、海域における漂流物等の除去、海底堆積物の耕うんやゴミの除去、河川の整備等、地道な改善を積み重ねていくことが大切なようです。
昨年フェリーの途中で見た、有明海の赤潮・・。(2024.8撮影)やはり赤い・・(;゚Д゚)
海に囲まれるわが国においても、長崎は二つの内海と複雑な流れを持つ外海に囲われており、海とは密接に関わる県でもあります(海に面していないのは、波佐見町の一町だけ)。
海の恵みを受け取るのであれば、その環境を守ることも大切なのですね。自分が出来る小さいところから・・・差し詰め、生活排水に配慮したり身近な川や海へゴミが流れていかないように拾ったり・・とかでしょうかね?
ところで、この橘湾の由来となった「橘周太(たちばなしゅうた)中佐」。
明治の陸軍軍人を代表する一人でもあり、日露戦争にて戦死されたのですが、その誠実な人格によって多くの方達から慕われていました。
千々石村の郷士であった城代家(周太の生家)の祖は橘氏一門の出(楠木正成と同族)であり、常々、天皇への忠義を尽くすよう諭されてきた事が、彼を軍人の道へと進ませます。文武両道に長け、その一貫した行動により信頼を受けて、当時の皇太子(大正天皇)の侍従武官として仕えることとなります。その後、教職を歴任しつつも軍人として最前線で戦う事を選び、日露戦争が開戦されるにあたって歩兵34聯隊第一大隊長として出兵、首山堡にて、明治37年(1904年)8月31日40歳の若さで最期を迎えました。
今でも「34連隊」は自衛隊の連隊として残されており、「橘連隊」の通称名がついています。
思うに、少年期日露戦争を覚えた明治型軍人さんの中には、彼を推しとして崇めている人が結構いた様子。彼等は「橘精神」を合言葉に、真面目一筋軍務に命を捧げている。「首山堡」なんてまさしく聖地!聯隊が満洲駐屯となった暁には、極寒風雪に耐えながらも誇りをもって訓練に勤しむ様子が記されている(その後玉砕戦となる絶対国防圏の戦いは辛苦の極みなのですが)。
うちの爺さまも周太と同年ながら、陸士一期上の彼をとても尊敬していました。ラジオでも熱弁したのかしらと思える程、熱い推し愛を感じる原稿が出てきました。勿論不動の一等は大君(明治天皇)ですが。
今の世にあれば、襷や扇子やらの周太推しグッズが絶対あったはず!(真面目に書きなさい)
ともすれば、「軍神」となった彼の姿は軍国主義の象徴として敵視されてしまいがちですが、使命を果たす人としての業を生死に於いて終始貫徹し続けたその人柄が、多くの人々に慕われてきたのも事実なのであります。
橘公園の入り口に安置されているこの周太の銅像は、長崎平和祈念像を製作した同郷である北村西望(きたむらせいぼう)氏の作品(大正7年〈1919〉建立)。
服のひだまで細やかに作られたこの銅像ですが、一時は戦時中の金属提供や戦後の戦犯銅像(戦意を煽った軍人像達のこと)の危機にさらされながらも、地元の人たちが必死に守ってきたものなのです(没収を免れるべく夜のうち砂浜に埋めて日の目を見るまで隠していたそうで)。
国道からもすぐ目に留まる高台のうえにて、厳然と佇む周太像は三海に囲まれる島原藩の一角をしかと見守っておられるのでありましょうな。
年末に建てられる高さ十メートルを超える大門松でも有名な橘公園(橘神社までの参道)を眺めると、人の集まる季節だけでなく些細な日々においても、子どもを連れたお母さんの姿や木陰に車を停めて休む人の姿、ドライブ途中に散策する若者や老夫婦等、老若男女様々な人々が行きかい穏やかに過ごす姿が見受けられます。
この橘神社の上方には、天正遣欧使節団で有名な千々石ミゲルの父が城主だった釜蓋城(かまぶたじょう)もあり、そこまで足を延ばすと、千々石の自然豊かな地と日に照らされる橘湾を一望する絶景が迎えてくれますよ。
嗚呼、市井の人々が行き交い日々慎ましく暮らす姿にも、彼が仕えた大君の子々孫々と仲睦まじく長崎の地に行幸され平和を祈願される姿を眺めては「あっぱれ」と満悦する彼の姿が頭に浮かぶのであります。
(了)

