癒やすもの | せつこのココロ 〜ありのままの自分を受け容れ、私が私の最強の味方になる♪〜

せつこのココロ 〜ありのままの自分を受け容れ、私が私の最強の味方になる♪〜

『ありのままの自分を受け容れて輝きたい✨』

どんな自分も、認め、受け容れ、私自身が私の最強の味方になる!

そんな自分に向き合う日々で得た元気をお届けします♪

私の中の癒やすべきものは何だろう?

いつ、何に傷付いて、何を許せなく思っているのだろう?

何に対して罪悪感を感じているのだろう?

その答えを見付けたとき、私は何を思うだろう?


私の中に、どうやら深く傷付き、罪悪感を感じていることがありそうだ。
それは一体なんだろう?

ふと思い浮かんだのが、30代前半で転職して、身体を壊し、半年もたずに辞めてしまったITベンチャー企業時代。

今の研修と被るところが山ほどある。

自分ではITスキルは結構あると思っていたのに、転職先では全然足りない感じがしてショックを受けて、自分はダメだと落ち込んだ。
それでも、ついていく為に必死で学び、無理を重ねた。

「SEたるもの、徹夜してでも学び、自分で何とかするものだ!」
そんな上司の言葉に、「出来ない。助けて!」と言ってはいけないんだと感じ、一人で抱え込んだ。

“やって当たり前”、“出来て当たり前” という雰囲気に、使えないダメな奴だと思われたくなくて、どこまでやっても足りない気がして、常に焦っていた。

食事の時間も休む時間も削って、寝る間を惜しんで必死に頑張り続けたけれど、結局自分で自分を追い詰めて、うつ状態に陥って続けられなかった。


“結局、辛くなって全部放り投げて逃げ出した。
やっぱり私はダメだった。”

“もう二度と、あんなキリキリ締め付けられて追い詰められるような働き方はしたくない!”

忙しく働くことへの抵抗感と、働くことへの恐怖と、自分はダメだったという思いが、染み付いて離れない。



今、同じようなことを研修先で感じている。

“鍼灸の専門学校の成績は良かった。
知識はある程度あるし、私はしっかりしたデキる人なんだから、大丈夫♪”

そんな事前のイメージは、始まってすぐにぶっ壊れた。

自分が持っているものは、現場で求められる知識にも、技術にも到底及ばない。
見えているもの、やっていることのレベルが違うように感じて、恐れをなして、“私には無理だ!” と、縮こまってしまう感じがした。

しかも、どう治療したらいいか分からないのに、
“自分で考えろ! 分からなければ調べて、勉強しろ!” 
と言われる。

『患者さんの症状の原因を自力で特定して治療することを求められて、それが出来るくらいなら、研修なんてしてないよ。』
思っても言えない、飲み込むしかない言葉達。


出来ない自分がダメなんだと辛くなる。
うまくできない度に、自分にダメ出ししてがっかりする。

それを繰り返して、すっかり自信を失って、患者さんを治療するのが怖くなった。

“私なんかには無理なんだ。
原因も特定出来ないのに、治せる訳がない。
自分を信じられない。向いていない。
もう辞めてしまいたい。”


「考え過ぎですよ!  もっと気楽に行きましょうよ!!」
そんなこと言われて、そう出来るくらいなら、悩んだりしないんだよ…。


“分かってもらえない。味方になってくれる人は居ない。
やっぱり一人で頑張るしかないのか。
もう疲れたから、辞めたいなぁ…。”

そう思う私と、それに答えるもう一人の私。

“じゃあ、私は相手を分かろうとしているの?
相手の味方であろうとしている?
自分の事で精一杯で、出来てないよね。
自分がそうしていないのに、相手にだけ求めても無理でしょ?
独立開業したら、全部一人で考えて、責任を持たなければいけないんだよ。
ここは、その練習でしょ?
許される範囲の失敗から学んで、成長するしかない。
毎日何とかなっているし、よく頑張っている。
せっかく来てくれている患者さんを放り出したくないし、喜んで貰えてとっても嬉しくて、続けたいと思っているでしょ?”

相反する想いが交錯する。


自分が出来ていないことばかりに思えて、息が詰まる。


“正しく、完璧でありたい。”
真面目で融通がきかない私は、デキる人であろうとして、自分の思う完璧でなければダメなんだと拘るあまり、「余計なことはしないで!」と、援助の手を振り払っているのかもしれない。

人を寄せ付けないオーラを放ち、自分からも声を掛けられない。
気付けば一人ぼっち。

仲間に入りたい気もするけれど、私が輪の中に入ろうとしたら迷惑に思われそうで、関わるのが面倒になって、一人でいる方を選ぶ。


自分も人も信じられない。愛せない…。



今の“自分はダメで、ついていけない。出来ない。” という感覚の始まりは、高校生の頃に学校に行けなくなったところなのかもしれない。

進学校に入学して、頭のいい人ばかりが集まった集団の中で、“自分は特別なんかじゃなかったんだ” と、戸惑った。
中学までは楽勝だった勉強が、頑張れなくて、ついていけなくなった。
自分を支えていたものが崩れ去って、自信を失い、学校に行けなくなった。
“私はダメなんだ”と自分を責めて、そんな恥ずかしい自分を見られたくなくて、家に閉じ籠もった。
親からも学校に行けない事を責められ続け、とうとう部屋から出られなくなった。

あの時の、終わらない真っ暗闇の中に居続けるような、不安でしんどい時間が甦る。

『もう、あそこには戻りたくない!』


“実力不足でダメな私は、ついて行けず、全てを投げ出して、いつも逃げ出してしまう。
でも、もう、そんなことを繰り返して、自分をダメだと感じたくない!!”

そんな想いも、辛くても辞められない気持ちを強化する。



“辞めてしまうのは、ダメなこと”
私の中に、根深くある価値観。

そんな風に思わなくていいと頭で考えても、そう感じてしまう。

ふと、父と母の顔が浮かぶ。


小さい時、父のご機嫌を損ねると、いつも床に正座させられて、延々と説教された。

謝っても、「じゃぁ、何が悪かったのか言ってみろ!」と言われ、何か言っても「そうじゃないだろう!」と怒られる。
分からないと言えば、「分からないのに、何で謝るんだ!謝ればいいと思ってもダメだ!」と怒られた。
何を言っても怒られるから黙っていると、「だんまりか。」と責められる。
ついに耐えられなくなって泣き出せば、「泣けば済むと思っているのか?」とさらに怒られる。

そんな父の後ろに、黙って佇むだけで、決して助けてはくれない母。


“何を言っても、しても、無駄なんだ。
ただ時間が過ぎて、父の気が済むのを待つしかない。”
床の木目をボーッと眺め、心を空っぽにして、やり過ごす。
木目が別の模様に見えて、面白くなって顔がほころぶと、「ちゃんと聞いているのか?」と咎められるから、俯いたまま無表情で耐え忍ぶ、苦痛と哀しみに満ちた時間だった。


そうかぁ。
今、研修先で、分からないことを高圧的に責められている時、あの頃の恐怖を思い出して、心が縮こまって怯えてしまっていたんだなぁ。


『結局、誰も助けてくれない。
逃げることも出来ない。
ダメな私である限り!!』

そんな誤った信念を強くインプットしていたのかもしれない。


“お父さんに怒られないために、いい子で居なければ。
納得させられるように言わなければ。
ダメな子は要らないと見捨てられちゃう。
お兄ちゃんの代わりに、素晴らしい子でなければダメなんだ。
そうでなければ、私が生き残ってしまって、申し訳ない。
存在が許されない。”


小学生の時に、テストで96点を取っても、
「残念だったね。一つ間違えちゃったんだね。」と言われた。
鍼灸の専門学校で、卒業時に学年で2番の優秀賞で表彰された時も、「最優秀賞じゃないのか?」と言われた。
どこまで頑張っても、褒められず、認められない虚しさ。


私の罪悪感の根底にある哀しみが見えた気がする。



今、私は大人で、自分で行動を選ぶことができる。
何をしてもダメで、逃げることも許されない訳じゃない。

自由にやりたいことを選んでいい。
苦しいところに居続けて、自分を苦しめなくていい。

今、私は、苦しい自分を救うことが出来る。
私は、私を助けることが出来る。

どうせ何をしたって無駄なんだと、虚しくなって、幸せであることを諦める必要はない。



もう、解放されよう!

上手く出来なくて悲しかったけれど、ダメじゃない。
だって、諦めずに歩いてきたから今がある。

私には、出来ることがたくさんある。
愛してくれている人もちゃんと居る。

私は存在していい。
ありのままの自分として、自由で幸せに存在していい。
誰かに助けられ、そのお陰で今、生きている。
誰かの役に立ち、喜ばれる、存在していいものなんだ!


父さんも母さんも許せないと思っていたけれど、卒業式の日、ちゃんと言えたじゃないか!
「そんな風に言われるのは、とっても嫌だ!傷付くから辞めて欲しい!!」って。
彼らは、優秀な私が自慢なだけだと、私は分かっている。
心から大事に思い、愛してくれていると分かっている。
その証拠に、今まで何度助けられたことか。
どんな私も見捨てずに、助けてくれた。
だから、今の私が在る。

私自身だってそうだ。
本当は、自分自身を誇りに思い、愛している。
こんなに頑張っても、思い通りに出来ないことが歯痒くて悔しいだけ。

でも、やりたいと思えないことを、もう無理やり頑張って何とかしなくてもいいのかもしれない。
喜べることを選ぼうよ!



『私は、なぜ研修に拘るの?』

学校を卒業しても、働くのが怖かったから。
外部実習で見学したような鍼灸治療院で働きたいとは思えなかったから。
鍼の実力もまだまだで、どうせなら、もう少し学んでおくかと軽い気持ちで思った、モラトリアムな選択。
就職もせず、稼がないことに罪悪感を感じたから、とりあえずもう少し学ぶことで、決断を先延ばしにして、体裁を整えた。

あんなにたくさんのお金と時間を掛けて、家族にもたくさん援助と協力をしてもらったのに、鍼灸の仕事をしないだなんて、言えなかった。


たったそれだけの理由だったから、思いもしなかった厳しい状況と、要求に疲れ果てた。

やりたいことだったら頑張れたかもしれないけれど、所詮、家族の目と世間体と、私の思う常識に縛られていただけだったから、辛かった。


『なぜ、辞めたくないとも思うんだろう?』

それは、施術させていただくのが嬉しくて、喜びだから。
今、来てくださっている方々が愛しくて、出来ることなら私が彼らを元気にして、喜んで貰いたいから。
喜びに満ちた彼らの笑顔を見て、私も一緒に喜んで幸せを感じたいから。

だけど、研修は必ず終わる時が来る。
最長でも再来年の3月には卒業して、彼らの施術を手放さなければならない。


まだ揺れて、決めかねて、迷っている。

でも、きっと、私は自分が喜べる方にシフトするだろう。
その答えが何なのか、まだ見えない。

だけど、私には出来ることがあり、人を喜ばせる事が出来る、存在していいものだと認められた。

子供の頃から培った罪悪感から自由になっていいと思えた。

今はそれで、上出来だ♪
私、よく頑張ったね!!


私には、ありのままの自分で心地よく居られる場所がある。
だから、大丈夫✨

そう思える幸せに感謝。


明日も素敵な笑顔でありますように❤️