瀬戸内 ジャクソン フェルナンド 『 100年のぼやき 』

瀬戸内 ジャクソン フェルナンド 『 100年のぼやき 』

生きることも死ぬこともままならず、しみったれた暮らしの中で日々懊悩する憂いの放浪者。
卑屈なまでに自らを蔑む繰り言は、もはや美しくさえある。   

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不揃いにそびえ立つビル群に分割された物言わぬ窮屈な空の下、季節を忘れて稼働する蟻達の往来をそぞろ眺めていました。
この街に出入りを始めた半年前より、その風景はまるで代わり映えもせず、また、どこか衝動的だけれど無機的で…。
無論私もまた市井の住人の端くれという意味では、それらと同類か、あるいは別種の虫か何かであろうことは確かですが、自我を圧殺することと引き換えに対価を得るという不文律に馴染めぬ私には、この世界の成り立ちがなんとも不思議でならないのです。
ついに半年に渡る修練が終わりました。
如何せん私が向こう見ずに容易ならざる学び舎へ飛び込んでしまったがため、それはもう首尾しんどくて随分と骨も折れましたが、ここで過ごした時間の良質だったことは、仮に他のものが全て虚構だったとしてもそれだけは事実で、今日の空合とは対称的に私の心は大いに晴れやかなのです。
果たせるかな、 私がここで培ったうんちくを生業とすることは叶わず、 一先ずは行く先も定まらぬまま漂泊の途につくこととなりましたが、 成るも成らぬも身過ぎ世過ぎの内、 特に私に仇をなす者がある訳でもなし、 それならばさんざん行きつ戻りつして流れ着いたこの悪路であろうとも、やがてはどこかへ繋がるものと楽観してゆくのも愉しかろうと思います。
どのみち私は今日これ以降も、 取っては捨て取っては捨てをやりつつ出鱈目に立ち回るのでしょうし、すでにそのことを恥じたり咎めたりする殊勝さを失くした今となっては、私は私という運命を生きて、私という道化を全うするしかないのです。
たとえ次の瞬間、この身に死が降りかかろうとも、光差す方を見据えて。