短編小説「日本のクリムト」


​整然とした神戸・御影の街並みは、彼女の「知性」を過不足なく育て上げていた。

白いアトリエで、彼女はただ精密な機械のように筆を動かしていた。

色彩の配合、構図の黄金比、すべてが完璧に計算された絵画。

技術の向上だけが彼女のすべてだったが、パトロンの男からは「血が通っていない」と冷酷に切り捨てられる。

​ある雨の夜、彼女は高村光太郎の「智恵子抄」を開いた。

芸術の行き詰まりの果てに狂気へと走り、最後にはレモンを齧って自然へと還っていった智恵子。

その純粋な狂気が、彼女の胸の奥の野生の引き金を引いた。

​彼女は知性の檻(おり)を壊すように、翌日の航空券を買った。

Reason blocks the light, instinct finds the way.
(理性は光を遮り、本能が道を見つける)

そんな確信が、彼女を未知の旅へと突き動かしていた。

​ナポリの裏通り(スパッカナポリ)は、生と死、そして性が剥き出しになった混沌の街だった。

頭上を覆う洗濯物、排気ガスとエスプレッソの香り。

その路地裏で、彼女は昼下がりの太陽を浴びる娼婦たちを目にした。

​夜の妖艶な記号ではない。生活の匂いをさせ、気怠げに笑い合う「昼の日常」。

彼女は通りに佇む一人の娼婦に目を留めた。

物悲しげな瞳で小さなカップを傾けるその姿に、圧倒的な生の気配と孤独が同居している。

​La belleza se esconde en la herida.
(美は傷の中に隠されている)

彼女たちの生きる泥臭くも強烈な現実が、彼女の筆に本能を宿らせた。

帰国後、彼女は狂ったようにキャンバスに向かい、

その娼婦の肌(鎖骨や頬)に、スパンコールのような現代の金粉を光のガウンとしてまぶしつけた。

​「素晴らしい、最高傑作だ」

とパトロン男は歓喜したが、本能に目覚めた彼女をもうコントロールできなかった。

男はそんな彼女を冷酷に切り捨て、彼女は世間から忘れ去られていった。

​すべてを失った冷たい秋の朝。彼女は洗面所で激しい吐き気に襲われていた。

検査薬は陽性。彼の子だった。

しかし、絶望は一瞬で消えた。

お腹に手を当てたとき、かつてない野生的な力が湧き上がるのを確かに感じたのだ。

智恵子は狂気の中で死んでいったが、

自分はこの混沌とした現実の中で、この子と共に泥臭く、力強く生きよう。

​La vita ricomincia nel fango.
(人生は泥の中で再び始まる)

​その翌朝、スマートフォンが狂ったように通知を刻み、

テレビは「大賞受賞」のニュースを報じた。

「現代のクリムト」と称えられ、世間という知性がようやく彼女に追いついた瞬間だった。

だが、窓辺に立つ彼女の心は、すでにそんな栄誉など通り過ぎ、

もっと遠くの、圧倒的な生の肯定へと向かっていた。

​(完)


「​語彙&表現」

​英語
reason 理性
blocks 遮る
the その
light 光
instinct 本能
finds 見つける
the その
way 道

​スペイン語
la その
belleza 美しさ
se esconde 隠れる
en 〜の中に
la その
herida 傷

​イタリア語
la その
vita 人生
ricomincia 再び始まる
nel 〜の中で
fango 泥

「あとがき」

抽象画がジャズだとするとクリムト系はブルースだろうか?

私は気に入った絵画があると対話をこころみる。

「あなたの伝えたかったのは?」

すると絵画が突然、息を吹き返したかのようにイメージを送ってくることがある。

ピカソの抽象画などは最初から生きていて

私も

「うん、うん、わかる、わかる」

となるので対話が楽しくて仕方がない。

その一方で作品に籠められた壮絶なエネルギーを受けて

ただただ圧倒されてその場に立ち尽くすしかない時も。

「序の舞」で弟子(上村)の作品の前で動けなくなったかつての師のように。

芸術作品は表現方法は違えども

作者の深奥に潜む巨大なエネルギーが突き動かす衝動が

原動力になっている。

この巨大なエネルギーが実は人間の生きる根源になっていることを見抜いたひとりに

フロイトがいる。

ユングはフロイト理論をさらに押し進めて意識論に到達。

詳しくは差し控えるが、

西洋がユングを世に出す2千年以上も前から

東洋では無意識層の探究を始めていた。

とくに密教では深奥のエネルギー層そのものに向き合っている。

私は音響心理学から様々な音響効果を比較・分析に興味がある。

つまり、音響としての芸術表現を全てに応用するというスタンスである。

それが例え建築物であっても設計図を観て

音響的にどうなの?

という視点で観てしまう。

そんなことはともかく、今日から最高気温が30度の日々が始まった。

朝晩で15度の温度差があって身体にキツイが

真っ青なブルーとグリーンに癒されながら毎日の散策を楽しんでいる。

ということで、また〜