「もっと怒られておけばよかった」


と、最近頻りに思うようになった。
ここで私の「怒られ論」を提唱したい。




最近、とある出来事で、立場が上の大人に注意されることがあった。普段は優しく、説明するときには時折微笑みを見せ、たまにジョークを交える(もちろん時と場を弁える)その人が、私の中のその人であれば冗談めかしく話してたであろうことを真顔で注意したのだ。私はショックを受け、その後も「何がいけなかったのだろう」とモヤモヤ考えることに。

それを友人に話すと、きょとんとした顔で私を見る。そう、"普通の人"であれば、軽く受け流したり、適当に謝ってその場を切り抜けて、ものの10分やそこらで忘れてしまうようなことなのだ。(内容上詳しく説明できないので伝わりづらいと思うが)

あの時、私は大真面目に、そして深刻にひたすら「すみません」と謝った。でも「アハハ、そうですよね〜すみません」でも済んだはず。むしろ後者の方が自然であったはず。

注意された内容と私の落ち込み具合は釣り合わず、まるで大失敗をおかして怒られたのと同じくらいに、ひたすら深く落ち込んだ。ここから這い上がるにまた一苦労だ。なんて大変なんだろう。

では、軽く受け流せる"普通の人"との違いはなんだろう。それは「経験値」であろう。

経験値、つまり「怒られ経験値」だ。
今までどれだけ怒られたか、という事である。
但し、身内や友達を除く、大人に限る。例えば学校の先生や、近所の人、塾や習い事の先生などだ。そしてそれは小中学生の間だと良い。

私は小中学生の間、とにかく真面目に過ごした。と言っても真面目に過ごしたのは半分で、もう半分は"真面目に過ごしていると見えるようにずる賢く立ち回った"だけなのだが。そのおかげで、私だけが怒られるという事は記憶上一度もない。全校集会やクラスなどの集団単位で怒られる事はあっても、個人的に怒られたことは一度もない。集団単位で怒られたことは私の中では「怒られた」にカウントされない。御多分に洩れず、集団で怒られていたその内容に、私は関係なかったからである。

ということで、私は怒られるという辛さを味わう事なく、社会へと一歩を踏み出す。今までのように立ち回れば、この先も怒られるという辛さを味わう事なく生きていける、と思っていたのは社会を知らなかったからであって、当然この立ち回りは通用しない。いくら真面目に生きても、真面目に生きているように見せても、理不尽な理由で怒られる事は何度もある。それだけではない。先に述べたように、人にとっては小さい、もはや「怒られる」ですらなく、「注意」すらも、怒られ慣れていないと、「怒られる」というレンジが広がってしまい、重く受け取ってしまうようになる。その度に深く落ち込んでいては、這い上がるのに心身を削り、身が持たない。だから怒られておくべきなのだ。

「怒られる」ということは何か「いけないこと」をしたからであって、つまり「怒られなさい」というのは「いけないことをしなさい」ということになる。ただ、そのように言いたいわけではなく、神経を常に張り詰めて生きるなんてことをしなければ、まして小中学生、普通に生きていれば一つや二つ怒られるはず。それを乗り越えて大人になるべきだと思う。しかし私は見事に飛び越えてここまで来てしまった。「怒られ経験値」はゼロ。「怒られ耐性」も当然ゼロ。もっと怒られておけば良かった、というわけである。

親や先生などが「怒られなさい」と教えるのは難しい。でも、あまり真面目に教えすぎないということは必要ではないか。正直者が馬鹿を見るのが世の習い。傷の二つ三つ抱えている方が、うまく生きていけるように思う。

これを読んで「何を今更当たり前なことを」と思う人もいるだろう。しかし、そんな当たり前なことを普通にこなせた人には関係のない話であるからそう思うのは当然である。普通にこなせずに苦しんでいるから、「こういう事か」と自分なりに分析し、そして納得して少しでも救われようとこのように書いているのだ。

私はこれから意識して怒られ慣れる気力も体力もない。いつか自然に慣れるのを待つか、もしくは深く落ち込んで這い上がるのを繰り返すだろう。だから小中学生の皆さん、

もっと怒られ論!(怒られろ!)



というさぶいジョークをオチに締めます^^;
最後まで読んでいただきありがとうございました。でわ。