ぶれない政治を保守本流と呼ぶのだとすると、確かに政治の現実は今や傍流するポピュリズムの極致にあるのかもしれない。



日本維新の会は、これまでの政治が先送りしてきた様々な課題を国民の前につまびらかにして、本質的な議論に国民世論を喚起しようとする気概と使命感を感じさせる政党であったが、その存在感は結論を急ぎすぎたあまり、本来の本質的な議論の土壌を国民に提供することなく、逆に国民の拒否反応を誘発してしまったのではなかっただろうか。



例えば、憲法改正の議論がその象徴的な課題であったように私は思う。私はあくまでも「憲法解釈論」によって自衛隊を正当化してきた過去の日本政治の手法は国際社会には理解され難く、日本国民が本質的な議論を回避しながら、問題を先送りする民族であるかのごとき誤解を生み出し、ゆえにどんなに経済的な成果を上げようとも、このままでは日本は全地球的な政治的リーダーシップを発揮する国民国家にはなりきれないだろうと考えてきた。



私の昨年の参院選での主張は、憲法9条の改正にあらず。まず、憲法を解釈で捻じ曲げるがごとき、政治的手法を止めるべきであり、世界に向けて日本を主張していくために、日本政治がこれまで先送りしてきた「本質的な議論」に取り組む姿勢こそが、今こそその根底になければいけないのだという信念から発したものだった。



ところが、憲法9条の改正に舵を切ろうとするあせりが日本維新の会に所属する少なからぬ議員や候補者を支配していたことは誠に残念なことだと私は感じ続けていた。



憲法改正のポイントは、何も第9条だけのことではないと私は主張してきたが、今もそう感じている。現行憲法が理念規定としてもすぐれたものであることは私も認める一人ではあるが、日本国の最高法規たる日本国憲法が日本社会の現実と乖離していてはならないとも思うのである。



つまり、憲法を尊重するのであれば現実を、現実を容認するのであれば憲法をそれぞれ変えることが法治国家、民主主義国家のとるべき道であり、筋である。そして、そのための憲法論議こそが、タブー視してはならない「本質的な議論」なのだと私は確信している。



憲法などの議論に国民は参加しないだろうとか、国民は理解を示さないだろうと軽々に結論づければ、この国のデモクラシーの発展の余地は狭められ、「民は由らしむべし知らしむべからず」という日本政治の現状を打破することはできないであろう。



私は今も政治には崇高な理念と理想が必要であり、その主権者たる国民は常にデモクラシーの究極をめざすべきものと考えている。



日本維新の会の解党と安部政権による集団的自衛権の憲法解釈による容認論は、だからこそ私には受け入れがたい現実であり、誠に遺憾である。



もっと丁寧に、日本国民の良識と良心を信じて、本音、本気で、この国の未来を論じ、この国の国民がいかに世界から信頼と尊敬を勝ち取り、真に世界に平和と繁栄をもたらす国家として、日本を建設し続けていくことができるように、青臭い願いかもしれないが、私はこれからも、この一事にこだわり、自分にできることを成していきたいと決意をあらたにしているところである。



本質的な議論。



是非とも、皆さんにも共に考えていただければ幸いである。



瀬戸健一郎

Kenichiro Seto