少し前になるが、新聞に興味深いコラムがあった。













先般の北京五輪の日本体操チームの活躍は記憶に新しい。






前回大会の団体金メダルには及ばなかったが、
美しい体操を追い求め、
落下しても諦めず、上位に食い込んだ冨田洋之選手。


彗星のごとく現れ、次世代の体操ニッポンを担うべき内村航平選手。



などなど。





素晴らしいパフォーマンスを発揮してくれた事に、拍手を送りたいものだ。








それ以前、日本体操チームは長い低迷期があり、
そのまた以前は、日本の体操は世界最強を誇った時代があったことを知らない世代も多いだろう。









さかのぼって、1972年ミュンヘン五輪。


日本体操チームは圧倒的な強さで団体総合四連覇を果たし、
個人総合と種目別を含め合計16個!!
のメダルを手にした。

(この16個、驚異!単独大会でとは…)






そんな世界最強を誇った日本チームのミュンヘン選手村の部屋に、
19歳のロシア人の若者がウォッカの瓶を携えてやって来た。



彼こそ後に歴史的に名を残す名選手、
ニコライ・アンドリアノフである。





私と同世代ぐらいの人は記憶にあると思うが、
お笑いのビートたけしさんがデビュー当時、

「アンドリアノフ!」

と叫んで妙な格好をした芸を盛んにやっていたが、
あのアンドリアノフである。



ちなみに、
「コマネチ!」

「メリー・キム!」

「ディチャーチン!」

と言うのもあったが、
全て当時のトップ体操選手である。









さて、脱線したが話を戻す。







当時の事を、「月面宙返り(ムーンサルト)」を開発した塚原光男氏は語る。




「アンドリアノフが何人かの旧ソ連の選手を引き連れてね、
『一緒に飲もう』って言うんだ」と。



氏の話は続く。

「彼らは日本から何かを学ぼうとしていた。
で、我々も酔っ払って説教するわけ。『あんなんじゃダメだ』なんて(笑)」



身振り手振りに片言の英単語、
体操の公用語だったドイツ語を挟んで意思疎通。


そこで伝えたのが、

「技術だけでなく、巧くなりたければ器具を大切にしろ」

「日本では練習の前後に頭を下げて挨拶をする。
礼儀であり、他者への感謝を示すためでもある」



世界一奪還に執念を燃やすかつての王国・旧ソ連の選手にとって、
それはたかが酒の席の話ではなく、
日本選手の言葉は正に「金言」であった。






ミュンヘンから二年後の74年世界選手権で、塚原氏たちの目が丸くなる。




以前の彼らはウォーミングアップも何でも、いつもバラバラ。


それが…







お辞儀の習慣が無い国の男たちが整列し、
一斉に礼をして練習を開始したのであった。












実は体操の競技規則には、
「演技前後に主審に礼をしなければならない」
とあり、
「規律のない態度は減点の対象とする」
と定めている。


しかし、国際大会において現実に減点されるケースは、まず無い。


だから、多くの選手が軽く右手を挙げるだけで済ませてしまう。




それでも、現在のロシアやウクライナなどの旧ソ連勢は、
今でも大半の選手が律儀に敬意を表して礼をする。






「うれしいですね、そういうの。」
と、アテネ金メダリストの冨田洋之選手は語る。



頂点を極めた男にとっても、
自国の文化の広がりは、メダルの数よりも誇らしい。









北京五輪での内村選手の立ち振る舞いに気付いた人はいただろうか。





演技に入る前、審判に向かって二度礼をする。



そして開始を促す緑色の旗が上がった時点で頭を下げ、
右手を挙げてまたペコリ。



本人いわく、
「誰かのマネをしたと思うんですが、いつ始めたのかな…」
と言うことらしい。












礼を尽くしたから、
態度を整えたがら、




だから勝てる…とは限らない。





また、礼儀正しくして、
10年で金メダルが穫れるか、20年懸かるかも分からない。





この辺は何とも、科学的にも説明のしようも無いが…








ただ、内村選手のように、いつの間にか当たり前に身に付いていた、
となると、邪心は無く、ただそうしている。






「態度」は「習慣」になって、
初めて「心」の「構え」が出来るようになるのかも知れない。





「構え」とは「備えなり」と、武道の世界では云われる。







先般のWBCでも感じたが、
長きに渡ってメジャーリーグが全て正しい、と云われ、
事実日本はアメリカに歯が立たず、苦杯をなめて来た。






それだけで必ず結果が出るものではないだろうが、
やはり「態度」をつくることは、
時間は懸かろうが、物事を成し遂げようとする「心」に繋がるのではないか。









少なくとも、私にはそう思えるのである。