北京五輪柔道66kg級で内柴選手が優勝。
北島選手も見事な泳ぎで100Mを連覇。


日本人選手の役者たちが狙い通りの結果を出し、やっと五輪が盛り上がってきた感じである。




特に今回は、内柴選手について書いてみたい。



アテネ後、調子が上がらなかった内柴選手。
家族の支えや周囲のサポートもあり、今回の栄冠に結びついたわけだが、
こと、柔道の内容から見て、勝因は二つと言える。



多くの報道でも報じられているので、目にした人も多いだろう。



一つ

「試合前から身体を動かし、試合中も終始動いて攻め、終わった後も小走り。終始動きを止めないリズムを保っていたこと」



二つ

「投げた後も、引き手と釣手の両方を離さなかったこと」



以前のエントリーでも書いたことがあったが、
スポーツにおいて実際に競技が始まったら、注意を払えることはせいぜい二つ程度。
究極は一つしか無理かも知れない。






投げた後、手を離さないと言うのは、実は大変重要である。



特に最近はルールが変わり、
「最初に相手の背中を床に着けた方がポイント(あるいは一本)」
が、
「動きの連鎖の中で、最終的に背中を着けた方がポイント」
になっている。



もちろん、以前のルールでも寝技に移行されるわけだから、
手を緩めることは攻めの隙を与えることになるので、あるべきことではないが、
投げを打って、それが有効に見えても、その後に動きが途切れず自分が背中を着けられたら、
自分がポイントを失うことになる。




つまり、以前以上に「手を緩めない」ことが大変重要になる、ということだ。




だが、こういうものは
「手を緩めないように気合を入れる」といった類の努力目標で出来るものではない。
長い間の「意識的練習」の末、それが特に考えもしなくとも「無意識的に出来る」レベルになり、
そうなって初めて「意識出来ている」という形になる。




意識はして練習はするのだが、「手を緩めない」ことに特に根性を入れるとか、気合を入れるとかは恐らくしていなかったと推察する。




ただひたすら、淡々と粛々と「留意し」「繰り返す」ことに終始したと思われる。




これが以前のエントリーでも書いた、「訓練」というものだ。




「終始身体を動かす」というのも、気合を入れて行うという趣旨のものではなく、
練習の段階で留意し続け、もはや無意識化レベルまで到達しているはずで、
試合で「頑張って動かして」いたわけではないはずだ。



ちなみに、身体を終始動かす、というのは奥深いことである。




人体は大半が水分成分であり、筋肉も例外ではない。
つい個体的に捉えがちだが、水分成分主体である以上、機能的に働くためには「循環」していなければならない。



水溜りも、循環していなければ「沼」になる。
流れ、循環していれば「川」であり「海」になる。




循環さえしていれば、常に成分が新鮮に入れ替わり、効率的に動くことが可能となる。
つまり、身体を「沼」にせず、「海」にする為には、動いている必要があるのである。




それは激しい動きでなくとも構わない。



例えば、単に「身体を揺らす」だけでも有効である。










少々、余談も書いたが、
「意識」を続け、「無意識化」まで昇華させ、
それが「意識出来た」と言われるレベルに到達出来るのである。



そこには根性も気合も要らず、
ただひたすら淡々と繰り返したのち、得られるものと考える。




北島選手のことは、全ての種目が終わってから改めて書きましょうか…