少し前に、コピーライターその他、多方面に活躍されている糸井重里さんのインタビュー記事を目にした。
最近は「ほぼ日手帳」が話題の氏である。



私が長く感じていたことに触れる感じがしたので、抜粋し述べてみることにする。






記者:
例えば、小説を読んだり映画を観たりといった、仕事と直接関係のないことをしている時に、これを仕事に生かせないかと考えることがありますが、こういう発想をどう思われますか?



糸井氏:
それは、生産者の論理で物事を考えている証拠ですね。
つまり、小説を読んでインプットした自分の方が生産者として優秀だということを意識している。でも私は、今後それが逆転する時代が来ると思う。
つまり消費者として優秀である方が、生産者を動かすという時代です。
映画の例で言えば、映画を一人の消費者として純粋に見ているあなたの方が、映画をインプットしようとして意識して行動しているあなたよりも、より優れた人であるということです。






記者:
でも、糸井さんのように色々なアウトプットをしてきた人が、純粋に消費者でいるというのは、すごく難しくありませんか?



糸井氏:
いや、それはないですね。
私は純粋に消費者として作っている。
「ほぼ日刊イトイ新聞」や「ほぼ日手帳」が商売として成立しているのも、自分が純粋に欲しいものを作っているからですよ。
日本の企業の多くは、生産者優位の発想から抜け出せていない。
どんなに語っても、消費のことを語るには生産の側からしか語られていない。これは逆ですよね。だって、ホントは使う時こそが面白いのに。








糸井重里さんの解釈の真意は直接話していないので分からないが、
私なりの解釈は、
「どんなにその道のプロを自負しようとも、消費者の感覚を忘れず『それを自分は欲しいのか?買って使って楽しいのか?』という視点を忘れるな」
と捉らえている。


ただ、言うは易く行うは難し。
半端に「プロ過ぎる」と、そういう感性を保つのは難しい。
ついつい「生産者」の観点で捉らえてしまいがちだ。




手前味噌だが、
私自身もそのことをかなり留意しているつもりである。


私のポリシーに、
「永遠の素人」
または、
「永遠の若手」
という言葉がある。


患者さんの施術に関しては「自分が患者ならどう感じるか」を考えるし、
学校での講義なら「この講師はどう目に映るか」と想うし、
選手への指導なら「選手側から見たらトレーナーとして、どう感じるか」を推察するし、
企業に対するアドバイザーや研修なら、
「こういう発想や視点の人間、あるいは働き具合をどう見るか」
を意識する、などは、
イヤらしい意味ではなく、頭から外したことはないつもりである。





例えば、トレーナーの育成に携わっている中で、ともすると、「トレーナー側の論理」
あるいは「教育者側の視点」になってしまいがちになる。
そうすると、実はよく考えるとあまり効果的でないことを、
長年の「慣習」で根拠もなく伝えてしまうことも多いもの。




これは以前に書いたエントリー、「二カメ・三カメの話」に通ずるかも知れない。




話がやや飛んだが、
要は「どう考えるか」ではなく、
「どう感じたか」「どう映るか」である。
もしかすると、そこにある種の「判断」はあっては駄目なのかも知れない。



やはり、私は究極の「永遠の素人」でいたい…


いい意味の「多重人格構造」で。