陸上競技ハードル選手の為末大選手。
最近は陸上の分野のみならず、様々なメディアに登場している。


トップアスリートとして、彼の存在は稀有な存在である。
競技は違うが、他の競技でトップを極めた存在と言えば、
中田英寿選手やイチロー選手、スケートの清水宏保選手などがいるが、
これぐらいのレベルになると、どうも一般的価値観と共有できなくなるらしく、
彼らに共通しているのは「孤高」のイメージになる。


だが、為末選手は、どのメディアに登場しても
その「感じの良さ」を崩さない。
努力してそうしている、という感はなく、
あくまで自然にそうなっている、という印象である。


その一方で、政治の話になれば若手国会議員のように熱弁をふるい、
得意のファンドの話題になればアナリストのように緻密な分析を披露し、
(最近「インベンスメントハードラー」という投資の本を出版したらしい。読んでみようと思う。)
トレーニングの話になれば運動生理学者も顔負けの持論を展開する。
かと言って自分を押し付けるでもなく、共鳴できない場合もその相手をバカにした態度をとるでもない。
常に相手に尊敬の念を向け、誰に対しても笑顔を絶やさない。
見ていて嫌みでなく、非常に好感も持てる。
話を聞いていて、実に楽しい。


ここ数年では、アスリートの中で、
松井秀喜選手と並んで広い意味でのトップの存在だと思う。


これは彼の人生観に依るところが大きいようだ。


彼はよくこんな発言をする。


「僕にはコーチがいない。だから自分以外の人は全てが“師”だと思っています。
分野を問わず多くの人の話を聞き、知識を得ることが、最終的には自分の競技にフィードバックされていく。
自分の知らない世界にはハードルの技術を磨くヒントが隠されているんですよ。」


なんと非の打ちどころのない、素晴らしい考え方。


事実、ファンドの勉強をすることで「情勢」を見るという習慣や目が養われ、
それが試合で他の選手の「状況」を見る目につながった、と話している。

それが前回のヘルシンキ世界選手権での豪雨の銅メダルになった、と後述している。



ここから先は、私個人の考え方だが…


アスリートとは、いったい何のために競技をやるのであろうか?


もちろん個々の記録やパフォーマンスを向上させて、
最終的には「勝つ」ことが目標なのだろうが、
果たしてそれだけか?
そこで終わって良いのだろうか?


私もよくこのような話は選手とするのだが、
結局、競技とは人間力の勝負であり、
逆に言えばアスリートは競技でけで終わってはならない、と思う。
人間として、自分がどうなりたいか?
最終的に死を迎えるまでに、何を全うするか?という
一つの方法論、表現方法として競技がある、と考えるべきであろう、と私は考えるし、
選手にも今自分がやっている競技について考えてほしいと思っている。


そうでないと、
たとえば30前後で競技人生を引退して、
さてこれから第二の人生、と今までの競技人生がまったく生かされない、あるいはそこが完全に分断されたその後の生き方であれば、
いったい今までの苦しい競技人生は何だったのか?
と考えざるを得ない。


つまり、競技成績を上げようと思った場合、
まずは、


「自分は何のために競技をやっているのか?」


「自分の長い人生の中で、競技とは何の意味を持つものなのか?」


「自分は、どう生きたいのか?」


を自問すべきなのかも知れない。


一見遠回りのようで、
実はそこに問題点が潜んでおり、
何らかの解決法が見出せるのかも知れない。


競技は、競技だけで終わるものではない、と。


…などと、私は考えているのである。