現代のベートーベンは一大詐欺事件に発展しようとしている。
※刑法としての詐欺罪に当たるかは分かりませんが、この言葉が一番しっくりくるので取り敢えず使います。

この件に関しては様々な意見があると思うが、
新垣氏を擁護する論陣を張るある方の主張を読んだところ、
正直気持ち悪さや不快感を禁じ得なかった。

今回の彼の主張は、恐らくだが、彼の今までの言動と照らし合わせたとき矛盾をきたすような、ダブルスタンダードと言えばいいのだろうか、そのような内容であると感じられる。

だからと言って私は彼を責め立てたい訳ではない。
ここで言いたいことは「こと自分の(あるいは自分にひどく親しい)ものとなると冷静で正しい判断を下すことが難しくなる」ということだ。
必死で論理的に考えれば考えるほど破綻をきたしてしまう、人とはそういうものである。

彼を取材した多くの人々は佐村河内氏が全聾でないことは、
分かったのではないかという主張も少なからずある。

私はこれに懐疑的だ。
もちろん鼻から知っていた人がいる(つまり共犯者がいる)可能性は否定しない。
しかし取材の中で気付かなかったことはおおいにありうる、と思う。

思い出して欲しい。
人の後悔において一番の多い理由の一つが「なぜそんな簡単なことに気付かなかったのか」である。
後からなら好きなように言える。
大切なのは前もって言えることである。

音楽関係者なら譜面を見ればという言説もまた気持ち悪さが残る。
エセ科学のようなものを科学者達が歯牙にもかけなかったことが、被害を大きくしてしまうことがある。
商業音楽だからと無視を決め込んだことが被害を大きくした可能性を見落としてはいないだろうか。
私も世間同様気づきませんでした、それで良いではないだろうか。

最後にニセモノの見破り方なんて今更説いてもほとんど無意味だろう。
私は全聾ですが作曲しています、なんて騙し方は多くあるケースではない。
だから発生頻度が低い一つ一つの事例に後から具体的な防御のテクニックを教えられてもまず役には立たない。(だってそのような状況に遭遇しないのだから。)

そうではなく、恐らく必要なことは内田樹先生が言うよな、危険を察知できるように感度を高められることではないだろうか。
そういうセンサーを持つことが重要なのだろう。

具体的な話でなくて申し訳ない。
感度だのセンサーだのなんだかよく分からないけれど、
生物が生き残るためにはそういうセンサーが必要であり、
逆に言うとそういうセンサーがあるものが生き残っているのである。
きっとそういうものなんだろうと思う。

邪悪なものの鎮め方/文藝春秋

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