世界の人は知りませんが、日本人は自分を責める人が多過ぎるのではないかと思います。そんなに偉い人は多くはないハズです。

 

 基本的に責められる資格を持つ人は少ない。要は偉い人は少ないという事です。どんだけ偉ぶっているんだって言いたくなります。

 

 ある程度、年を取って来ると自分を責めることになると思いますが、驚くのはとても若い人が自分を責めていることです。

 

 右も左も分からないのだから、責める価値もないし意味もない。まあ、結果が出ないことで自分を責めるのでしょうが、それは結果を出せる先生を持たないからだけのことなのです。

 

 人は何も持たずに生まれて来るので、最初は誰かを見習う事で何かを得るしかないのです。問題は、見習う事で勘違いすることにあります。

 

 見習って出来るようになれば、自分が出来る人間だと勘違いする。それは、見習った人が良かっただけの事なのに。

 

 問題は、見習い期間は長く取れないという事です。何故なら、人は皆違うので他人の真似ばかりしていては自分の人生を生きれなくなるから。

 

 仕事でもそうですが、何事にも見習い期間は欠かせません。しかし、最後までそうだとダメだと思います。必ず独り立ちしなければいけないのです。

 

 仕事なら誰でも知っているのですが、人生という事になると誰も知らないのです。幼い頃から学ぶことばかりを強要され、見習い精神がつけられてしまい、永遠に見習いとなってしまうのです。

 

 誰だって、教えてもらえば出来るのです。それを出来たと威張っても何の意味も価値もないのです。それは、他人の力に過ぎないから。

 

 大事なのは自分で考えて行動することで自分に力を付けることになります。これが出来て初めて自分を責めることも出来るという事です。

 

 責めるとは咎めることではありません。キチンと検証して新しい考えを作ることを言います。自分で考えて行動するから検証も出来るのです。

 

 習ったことはメカニズムが分からないので検証できません。検証できないから改善も出来ないし、成長も出来ないのです。そして、永遠に見習いのままということです。

 

 自分を責める資格があるのかキチンと確認しましょう。教科書を見て行動している内はその資格はありません。そういう人が自分を責めても何の意味も価値もないのです。

 

 だって、問題は教科書にあるのだから。残念ながら、誰もが大事にしている教科書は嘘ばかりです。だから、現代人の多くは人生がままならないのです。

 

 教科書を見て一人前で出来ている錯覚をするので、自分を責めることのになるのですが、正直100年早いという事です。自分を責めたければ教科書を捨てることです。

 

 そこから人は大人の階段を上がることになります。教科書を手にしている内は何時まで経っても見習いから卒業することは出来ないのです。

 

 今回は少し違う喩を使って書いてみました。学ぶという事がどういうことなのか?何故、何時までも学んではいけないのかという事が少しはお分かりになるでしょうか?

 

 日本人の多くが教科書を手放せない人生を送っていると思います。それは、何時までも見習いであり一人前にはなれないという事なのです。

 

 そして、教科書愛好家にとっては恐ろしいことに、人生の終盤になると教科書がなくなるのです。そこから大人の階段を上るのは結構しんどいと思います。