学び優先の世界が目指すのは当然「知の世界」となります。今や人間を知能指数などというバカげた指標で測るくらいですから。

 

 その結果、誰もがチャットGPT化していまい、言葉の意味を理解することが出来なくなり、言葉が通じなくなり人間関係は壊れ、親子も壊れた。

 

 残ったのが経済関係だけであり、何時消えるか分からないお金という価値にびくびくしながら苦しんでいる人が多いのではないかと思います。

 

 ただ、お金が永遠にあると思う人はそんな不安は微塵もないかもしれませんね。諸行無常というこの世界の掟を忘れるくらいバカになっているという事でしょう。

 

 知をもたらすのは学びです。しかし、学びでは分かるを得ることは出来ない。分かるためには考えないとダメだからです。この事実を知らない人が実に多いと思います。

 

 そして、知っていることで分かったふりをする。これが言葉の使い方を間違う原因であり、相手を誤解させ人間関係を壊す結果を生むのです。

 

 他人イジメてはいけないと知ってはいても出来ない。

 モノを盗んではいけないと知っていても出来ない。

 不倫はいけないと知っていても出来ない。

 家族に優しくしないといけないと思っても出来ない。

 

 全ての出来ない理由は知ってはいるが分かってはいないという事になろうかと思います。要は分からないことで人生を棒に振るのです。

 

 これが、誰もが信じて疑わない学んだ人間の末路という事になります。学ぶ人間と考える人間の差は天と地ほどの違いが出ます。だからこそ、口を酸っぱくして学ぶのではなく自分で考えて行動する道を得らびましょうと提案しているのです。

 

 そして、現代人に多い現象の一つに「そうすれば良いか分からない」下手したら「どう生きれば良いか分からない」という究極の学び人間が増えているという事です。

 

 まさに知ってはいるけど分からないという事です。知ることが出来るのは過去だけなのです。何度も書いていますが温故知新という事はあり得ないのです。

 

 言葉はとても便利なモノであり、本当のような嘘が簡単につける。それによって人間が騙されるという現象が多々起きるのです。学ぶとはそれを鵜呑みにすることであり、その言葉の嘘が作るリスクを受け入れることになるという事です。

 

 新しきを知ることは出来ない。何故なら、新しきは存在していないからです。存在しないモノを知ることが出来ないのは、小学生でも分かる当たり前ですが、それを大人が騙されて信じてしまうという現象が現実に起こるわけです。

 

 分からないというのは、危険極まりないのです。それは、幼子を同じという事になります。自分で考えれば誰だって分かるのに。それをしないばかりに分からない人生を送ることになるのです。

 

 もちろん、温故知新はまるっきり出鱈目化と言えばそんなことはない。温故知新が通用した時代もあったという事です。100年経っても変化のない社会はあったのですから、そういう時代に生まれた言葉という事です。

 

 学ぶ人はそういう臨港変な対応が出来ないという事です。人は皆違うということは、人に依って対応が変わる。変えなければいけないという事になります。

 

 これまでは社会の発展があり、人間の能力が劣っても何とか社会を維持できていましたが、これからは、その社会の発展がなくなるので、私たち人間が成長しないといけなくなるのです。

 

 その為にも学びを止め自分で考えて行動することで自分という人間の成長を図らなければいけないという事になるのです。

 

 結局、これまでどんなに社会が発展しても、全ては上手く行くどころか宇なく行くことはなかった。それは人間社会を円滑に運営するためには、個々人の成長がなければダメだという事を意味すると思います。

 

 その為にも、全ての人が「自分で考えて行動する」本来の人間として生きることを目指すべきではないかと考えます。