Quoraでの回答を転載します。久々に資本主義について書きました。同じようなことを書いた記事があるかもしれませんが、内容は若干違うと思います。

 

 資本主義の奴隷になる為に奨学金でお金を借りて大学へ行き、そのお金を返す為に資本主義の奴隷として働く。文字に起こすとめちゃくちゃおかしい事してるんですが、これはカルト狂信者なのでは?

 

 

 資本主義とは、資本=お金、主義=教義と置き換えると「お金教」という宗教になるのです。資本主義の奴隷とは、「お金教」の信者という事になります。お金が全ての人たちです。

 

 宗教とお金は、言葉の誕生に依って出来て副産物です。元々は別々に発展してきたのですが、産業革命によって合体したという事になります。いや、既に合体したことで産業革命が起こったという方が正しいかもしれません。

 

 その結果、キリスト教やイスラム教、仏教と言った世界のあらゆる宗教を超えて地球全体に広がってしまったという画期的な発展を遂げました。それは、神は目に見えないので分かり辛いという特徴があったのに対して、お金は目に見えて分かり易いということが普及を支えたのでしょう。

 

 「お金教」のお題目は「豊かになれば幸せになる」ではないかと思います。これまでの宗教が「信じる者は救われる」という何とも中途半端なお題目とは大違いですから。

 

 そして、ほぼ全人類が信者となったことで人類は途方もな世界を築けたというわけです。その結果を見ることで、現代人の信仰は強固で揺るぎなきものとなっていると思います。

 

 宗教に欠かせないのは教会であり、「お金教」の教会は学校という事になります。何も知らない子どもたちは学校に通う事で「お金教」という宗教の洗礼を受けるわけです。そして、大人になる頃には熱心な信者となってお金儲けに奔走することになります。

 

 とは言え、学校を卒業すると教会へ行かなくなるわけで、その信仰心が揺らぐこともあるのです。何故なら、金儲けは他人を騙すことで出来ることだから。信仰に欠かせないのは心です。そして、心がそれを受け入れられなくなるわけです。

 

 そこから人間が苦しみ始めることになるわけです。良心の呵責に耐えられなくなり、それを紛らわす行動に走ることになります。その多くは不健康なことであり健康を害する人が増えるのです。

 

 しかし、その心のもやもやが何かを知ることは出来ません。それをさせないのが宗教であり信仰なのです。信じるという事は疑いを挟まないこと。信じたことを疑ってはいけない。信じたことに疑いの余地はないからです。

 

 だから、最終的には「お金教」の信者としての道を歩むしかないという事です。しかし、「お金教」のお題目である「豊かになれば幸せになれる」というのが嘘だったという事に気づく日が来ることになるのです。

 

 それに気づくと多くの人は絶望することになるでしょう。それを避けるには「幸せなんかない」と思うしかないと思います。今やそういう偉大になっているのではないかと思います。やがて、人間の辞書から「幸せ」という言葉が消え去る日が来るかもしれません。

 

 もし、そうなったら人間が滅びる最終段階だと思います。一見して良いと思われることが最終的に最悪だったという事は多々あると思います。本来、そういう時に人は状況に応じて方向転換して何を逃れるわけです。

 

 しかし、それが出来るのはアプリの分となります。OSとなる信仰についてはそういう方向転嫁が難しいのです。何故なら、OSを止めることが出来ないから。人間にはコンピュータみたいなストレージはないので、OSの入れ替えは非常に困難になります。

 

 人は皆違う・・・・これを根底から壊すのが宗教であり信仰です。人間が生き残るにはこれを捨てることが必要となります。これが意味することは、他人を信じるのではなく自分を信じなさいという事です。

 人は皆違うという事から来る人が為すべきことはそれなのです。それを捨てみんなで同じもの信じて力を合わせることが出来たから、この信じがたい繁栄を手にしたのですが、そら今や我々人間を滅亡へと追い込んでいるのでそうする他はないのです。

 

 余計な事を長々と書いてスミマセン。この世界にある真実とそれが及ぼす未来についての参考になればと思いました。現在というのは過去の結果です。しかし、未来という未知なる世界は今何を考えてどう行動するかで決まるのです。

 

 このままで良いと思う人はそれを踏襲すれば良いと思いますが、この世界はおかしいと思う人は、それではいけないと思うのです。