今更ですが、今回は誰もが良い事だと信じて疑わない学ぶとはどういうことなのか?という事について改めて書いておこうと思います。
端的に言えば、真似ることです。鵜呑みにすること。もっと言い方を変えれば盗むことになるのです。
きっと、それは優れた人が導いた答えであり、それを学んだ先生が教える正しい事だから。そして、それを得ることで自分が賢くなり得をするからという理由ではないかと思います。
確かに一見して思うに非の打ちどころのない良い事の様に見えるわけですが、果たして本当にそうなのでしょうか?
もちろん、将来仕事をする為には仕事に必要なことは学ばないといけませんし、生きていくために知識として得ておく必要なこともあると思います。
それならば、その必要に応じて学ぶだけで良いのではないかと思うのです。しかし、現実的に言えば、むしろ、不必要なことが多過ぎるのです。
何故、そこまで学ばせるのか?という疑問をお持ちの方はいないのでしょうか?
それは、あたかも必要なことを学ばせるというより、何が何でも学ぶという習慣をつけさせるために行っているのではないかと。
その割には、本当に必要な例えば法律の知識や生きていくのに欠かせない困難に立ち向かう方法や生きることの価値や意味、そもそも人間とはどういう生き物なのかという肝心なことは省かれているのです。
それは戦場に鉄砲や大砲は持たせるが身を守る鎧やヘルメットは持たせないのと同じことだと思います。まるでかつての神風邪特攻隊員を育てているような・・・・
ご承知のように人は皆違うのです。それは全ての人の人生も違う事を意味します。しかし、みんなに同じことを学ばせることでそれは全て反故にされるのです。
しかも、最悪のは、学びの成果としてそれをどれだけ覚えているかをテストし、それでもって人間を評価し優劣を決めるという愚かなことをやっているのです。
それは、教育する者が自ら学ぶという行為を貶めることではないのでしょうか?学ぶことが尊いのであれば、それで人間を図る道具にすることは出来ないと思います。
テストをやる際にカンニングは防いで卑怯だからダメだと豪語するわけですが、学ぶという行為そのものがカンニングしている行為なので、本来、祖俺を咎めるのはおかしいのです。
ここまで書けば、学ぶことが良い事ではない、むしろ、人間にとって危険なことが何となく分かるのではないかと思います。
しかし、学ぶ人は、こういう学ぶことの意味を考えることが出来ないので、先生に学ぶことは大切だと教えられるとそれを信じてしまうので場合によって死ぬまで、いや死んでも気づかないのです。
百歩譲って今は資本主義と呼ばれる「お金教」という宗教が支配する世界なので、生きていくためには働いてお金を稼がないといけないので、その為に必要なことを学ぶことをすることはやむをえないと思うのですが、その学ぶ癖が人生にまで及ぶと人生を台無しにすることになるのです。
答えのある問題は大いにカンニングしても問題ないし、むしろ、その方が効率的だと思います。しかし、我々が生きる人生に用意された答えはないのです。
むしろ、みんな違う人生を送るので答えなんか容易出来ないと言うべきかもしれません。従って、誰もが自ら答えを考えないといけないという事を義務付けられます。
そんなことできないと思うのであれば、それが学ぶことの最大の弊害という事になるでしょう。人間には誰もがそれを出来る能力を持っているからです。
しかし、何でもかんでも学ぶことで生きて来た人は、自ら何かを考えて行動していないので考える力がなくなっていて出来なくなっているだけなのです。
もちろん、カンニングで死ぬまで生きられれば良いのですが、何れカンニングできない問題と直面する日が来るのです。その時に人間はお先真っ暗という絶望を覚えることになります。
もし、そういう症状が出たとしたらカンニング人生だったという事になります。もちろん、それを知ってからカンニングを止め自分で考えて行動することを始めることは出来ますが、カンニング期間が長ければ長いほど、人生を立て直すのに時間が掛かります。
殆どの人がこれに気づくのは大抵は仕事を定年で辞めた時が一般的だと思います。カンニング技術を競う仕事に没頭している分、カンニング人生は続けられるので・・・・
最後に、この世から盗人が居なくならないのは学ぶという行為が知識を盗む行為であり、学校がそれを推奨しているからです。学校は盗人養成所という事です。
その先にある職場もそうでしょう。如何に他人の知識を盗んで自分のモノにするかを競っている。それに長けた者が仕事の出来る人間と称賛され偉くなり高収入を得るので。
しかし、ここまで読んでいて、何故そこまで良くないことを人間が良いモノだと信じてしまったのかという疑問が出て来るのではないかと思います。
本当に人間が凄いのは考える力を持っていることなのに。考えるとは想像することであり、想像は自由で無限なのです。私たちはその想像力を使って今日の文明社会を築いたのは紛れもない事実であると思います。
要はそこなんです。自分たちで築いた凄い文明に感動したわけです。そして、その文明に引き込まれてしまったのです。それは神に対する信仰と同じ原理です。
過去の栄光に縋る人間が多いことは誰もが知っていると思います。そして、過去に栄光がある人間ほどダメになっていくのも。それはその栄光に心酔してしまうからです。
そして、その栄光に学び同じことをやれば、また同じような栄光に浴することが出来ると勘違いしてしまうのです。
失敗は成功の基という言い古された言葉がありますが、それは失敗が大事であるという意味です。見るべきは失敗なのです。学ぶべきは失敗なのです。
では、誰もが欲する成功の先にあるのは何かと言えば、それは悲しいかな破滅という事になります。
そんな世知辛い事を言うな!!!
とお叱りを受けるかもしれませんが、それは歴史が証明している事実ではないかと思います。
つまり、破滅とは正しいことを学ぶことで始まるという事です。何故そうなるかと言えば、この世界にある本当に正しいことは学ぶ必要のない事だから。
言うなれば、誰もが正しいと信じて疑わないことは、たまたまその時に正しかっただけという限定的な正しさなのです。
何故、正しいことは学ぶ必要がないかと言えば、それは誰もが見れば分かることだからという事になります。引力というモノを知らなくても手に持った石を話すと下に落ちることは誰もが見て分かること。
本当に正しいことは学ぶ必要のない事なのです。それは生きていく中で自然に身につくモノという事になります。しかし、その前に学ぶことで、限定的正しさに支配されると本当に正しいことを知ることが出来ないという悲しい事態に陥るのです。
そして、恐ろしいことに、その間違いを正す方法はないのです。
自分が学んだ正しさのことを一般には正義と呼びます。人は誰もが自分の正義に支配されて生きてる。そして、学ぶ人はその正義がフィックスされるので時代の変化について行けなくなり年を取れば取るほど生きづらくなるという憂き目に遭うのです。
その点、自分で考えた正義を持つ人は時代に合わせて正義を自由に変えることが出来るので、とても快適に楽しく生きることが出来るという事になります。
自分という人間の人生を知っているのは自分だけなのです。
だから、他人を真似る行為である学びは絶対に行けない。特に学ぶ習慣をつけることは致命的となります。最悪、この時代を生きるために必要に応じて学ぶまでに留めましょう。
でも、本当に自分で考えて行動できるようになれば、その必要もなくなるのです。何故なら、全てを自分で考えて行動で気うようになるから。
考えるとは想像することであり、結果から理を導き出すことです。万物には全て理があるので、その理が分かれば全てを知ることが出来るという事になります。
そもそも、人間には誰でもそれが出来る能力を持っているのです。学ぶという愚かなことをしなければ・・・ですが。
世の中には自分の人生が自分の思い通りにならないと嘆く人が実に多いのですが、それは他人を真似るから仕方ないのです。
自分の人生に問題を抱える人は全て学んだせい、要は学校で学びを強要され学ぶ習慣をつけられてせいだという事になります。
学びの先にあるのは破滅です。従って、人生を破滅から守るためには、学びを減らすこと。最終的には学ぶことを止めることが出来れば自分の人生が自分の思い通りなるのです。
たったそれだけのこと、人生は天と地ほどの違いを見せる。天に昇るか地に這いつくばるかを決めるのはもちろん自分という事になります。
全ては自分で選んでいるのです・・・・