前にも書いたことがあると思いますが、言葉というモノのおそろしさについて改めて書いてみたいと思います。

 

 言葉は何のためにあるのか?

 

 それは残念ながら人を騙すためにある・・・という結論にならざるを得ないと歴史が証明していると思います。

 

 言葉が誕生して最初に出来たのが宗教ではなかったかと。神という言葉を作り、神という存在しないモノを在るように思い込ませたことで、人心を掴み支配したのが宗教です。

 

 苦しむ人に救いを与えたのが宗教だと信じて疑わない人が今日でも大勢いるとは思いますが、本当の救われたのかと言えば、決してそんなことはないと歴史は語っていると思います。

 

 私は、この世は奇跡の産物であり、全ては奇跡で出来ていると最近では書かなくなりましたが、事あるごとに書いてきました。しかし、現代人の殆どは、それを当たり前にしか見れず、この世に奇跡などは起こらないと思っているかもしれません。

 

 当たり前という言葉を作ることで、日々起こる奇跡を当たり前にすり替えたかったのではないかと。何故なら、全てが奇跡であるなら、奇跡を為す神の存在が証明できなくなるからでしょう。

 

 そうやって言葉を新しく作ることで、自分たちに都合の悪いことを亡き者にし、人心を掌握して支配してきたのです。

 

 今日では、神がお金に変わり、お金を餌に人心を掌握することが出来るようになったので、言葉を新しく作ることは減ったかに思えるのですが・・・・

 

 しかし、現実的には、お金の必要性を強化しないと、お金が餌とはならなくなるので、それを防ぐために昔以上に新しい言葉を作り、お金の必要性を上げ続けている気がします。

 

 特に医学の分野でそれは目覚ましいわけで、心の障害に始まり思考や行動の障害まで、様々な病名を作り出し、新しいお金の必要性を拡大しているようです。

 

 自己肯定感という言葉を作れば、そういうモノがあるように思えてしまう。しかし、そんなものはなくて、学校で自己否定されることで、失われた自己を肯定しなければいけなくなっただけのことなのです。

 

 それは、まるで神を引き立たせるために作られる「悪」と同じであり、言葉を使って人を騙す典型ではないかと思います。そして、そうやって言葉にすることで、実際には存在しないモノが存在するかのように錯覚に陥ることになる。

 

 そして、その錯覚を現実と受け止めてしまうと、その錯覚以外が現実のモノとして認識されてしまうのです。

 

 一度こうなってしまうと、人生は大きく狂い始めるのです。そして、この世界が「アベコベ社会」と化してしまうのです。

 

 人が長く生きれば生きるほど様々な経験を通して段々と楽に生きれるようになるのに、アベコベ社会は、それとは反対に、どんどん劣化していく現実に打ちひしがれることになるのです。

 

 全ては言葉が作った嘘に騙された結果だと言えるでしょう。人は何時そのことに気づくことが出来るのか?やはり、そうするためには「学び」を止め、「自分で考えて行動する」ことを進める以外にないと思います。