【学校に行きたくない】子どもにどう向き合う 「私も学校が好きじゃなかった」愛媛大・信原心理臨床相談室長に聞く(愛媛新聞ONLINE)  

 

 

 夏休み明けを前にして毎年恒例となっている気がします。行きたくないという子どもに、最近は無理強いしなくなってきており、大学の先生までもが「いかなくていい」と公言する時代となったようです。

 

 私の考えは当然、「いかなくていい」ではなく「いってはいけない」という事をしつこく理由と共に訴え続けているわけです。

 

 古い話を持ち出すと、学校教育が始まった150年前は殆どいかなかったみたいです。あんなところ行って何するんだという親が多かったわけで、当然、親が知らないモノを子にさせようとは思わないでしょう。

 

 当時の日本は途上国であり、資本主義というモノにまだ飲み込まれていませんでしたので、金儲けを考える人は少なかったからそうなったのだと思います。

 

 教育は基本寺子屋で行われており、学校の必要性は無かったという事でしょう。政府が寺子屋を廃止してから学校へ行く人が増えたのではないかと思います。

 

 ここで、当時の親は学校というモノを知らなかったので、わが子を行かせようとはしなかったという親の責任が見て取れると思います。

 

 そして、現在では殆どすべての親が学校へ行っているわけで、学校というところがどういうところかを知っているのではないかと思います。

 

 しかし、現実には学校という存在をキチンと検証している親は殆ど居ません。何が良かったのか何が問題なのかと言った疑問を持たないからそうなるのです。

 

 そして、学校を出ることで自分が就職できたという一点で、学校というモノを推奨しているわけです。実に稚拙な考えだと思います。人が学校で働く機械に改造されたことで起こること。

 

 毎度書いているように、人は働く為に生まれてくる機械ではないのです。全ての人が違っているので、同じ機械になれるわけがない。そういう無理をすることで人は壊れるのです。

 

 人には「自分で考えて行動する」という人だけに与えられた物凄い能力があります。自分というモノを認識出来るからこそ実現できた能力ではないかと思います。

 

 その自分を学校教育で「学び」を強要することで消し去ってしまう事で命令通りに動く機械人間が作られる。実に無駄なことであり無意味なことだと思います。

 

 そういう風にしか出来なかった先祖の能力不足が招いた悲劇と言えるでしょう。そして、「自分で考えて行動する」ことで成長できる人間が、「学ぶ」ことで成長を捨て劣化の一途を辿っている。

 

 「学ぶ」ということは、それを受け入れた時点で、それが最上位となり、そこから上には行けないのです。つまり、成長ではなく劣化しか残されてないということ。

 

 師匠を弟子が抜くことはないということです。それをするためには「自分で考えて行動する」ことが必要なのです。考えるとは想像することです。

 

 師匠を超えるには、知識を超えるには、その先を想像する力が無いとダメだという事。そして、学びとは受け入れる、真似ることだから、それ以上にはいけないのです。

 

 是非、このことを知って欲しいと思います。人間が学校というモノを通して「学び」の大切さを強調し信仰し始めた時から、人間の成長は止まり劣化が始まったという事になるのです。

 

 こうして、アダルトチルドレンという新しい人種が増殖し、社会が子ども化することで生きづらくなってきているという事です。それを助長しているのが「仕事さえ出来れば」「お金さえ稼げれば」という馬鹿の一つ覚えなのです。

 

 機械ですから一つの事しか出来ないからそう言うのでしょう。

 

 そして、人間の本分である自分は何のために生きるのか?という人生の目的を築くことが出来ず、人生を詰まらないモノにしてしまい、最後は「こんなはずじゃなかった」と嘆くのです。

 

 全ては「学ぶ」ことで起こった悲劇です。「自分で考えて行動する」ことが出来なかった悲劇です。人間に生まれながら人間として生きれなかった悲劇だと言えるでしょう。

 

 そして、如何なる人生を生きようとも、いかなる結果を得ようとも、何故そうなったのかを考えることが出来ない。本来の人間としてはあるまじきことですが、それが今日の人間かもしれません。

 

 そういう人生を強いられながらも、その原因が分からないから、自分が通った学校へ大事な我が子を通わせるという同じ悲劇を繰り返してしまうのです。

 

 本当のことは最期に分かります。しかし、分かった時には後の祭りとなるのです。人生の最期に近い人間とは、逆に言えば、最も未来を知っている人間という事になるでしょう。

 

 それを老婆心と言ってまともに相手にしない。まあ、老人も学校教育を受けているわけで、レベルは変わらないので仕方のないことかもしれません。

 

 しかし、将来、学校に行きたくないのは当たり前であり、いや、学校へ行ってはいけないのが当たり前になる日が来ることを期待したいと思います。

 

 そうなるように、今後とも発信していこうと思います。