Quoraで、死刑に対する質問があり、それを考えている中で思ったことを書いておこうと思います。

 

 死刑に関しては未だに賛否両論あるわけですが、個人的には死刑には反対です。形式的には殺人を抑止するという理由から死刑があるのかもしれませんが、死刑という刑罰こそが殺人であり、法律が殺人を許しているという事になるからです。

 

 本当に怖いのは、法律という自分たちが決めたルールによって、死刑執行人が仕事としてお金を貰って刑を執行しているということ。世の中には、お金を貰って人を殺す殺し屋が居るみたいですが、それは、ある意味、非合法の死刑執行人ではないかと思います。

 

 人は人を食べません。だから、本来、人は人を殺すことはないと私は思います。そういう人に殺意を持たせることこそが最大の問題であり、本来必要のない殺意を持つという状況は一種の病という呼ぶべきではないかと思います。

 

 本来は持たないハズの殺意を人に持たせるのが、それを教える教育という事になるのです。だって、誰かに教えられないとそれを知ることは出来ないから。

 

 しかし、現実には死刑が無くても殺人は起こるではないか?と、お叱りを受けるかもしれませんが、それは、人が抱く殺意を病気として捉えて対応しないからだと思います。

 

 ある意味、今の社会では、人が殺意を抱くことは仕方ない、或いは当然のことだと認識されているのではないでしょうか?まあ、それほど、人間社会が荒んでいるという事なのかもしれません。

 

 私は、イジメの話を聞くたびに、イジメがある環境からは直ちに非難すべきだと書いています。これも殺意と同じで、本来、人は人をイジメたりしないという認識があるからです。

 

 しかし、現実にはイジメは至る所起こっている。つまり、今や社会が荒んでいるという事なのです。狂っていると言った方が良いでしょう。

 

 そして、イジメなんかに負けるな!!的なバカな意見が出て来るのです。イジメとは他者に対する攻撃です。それは、本来の人間にはないモノです。

 

 つまり、その人は病気であるということ。異常であるという事です。それを当たり前と思うから話がおかしくなるし、問題解決が図れないのです。

 

 イジメの延長線上に殺人があると言えるでしょう。他人を攻撃するというのは他人の存在を否定する行為です。それは何故起こるかと言えば、自らが否定されているからに他なりません。

 

 そういう人を否定する社会が現代社会であり、そういう社会を築いたのが学校教育という事になるのは言うまでもありません。言い換えれば、イジメも殺人も学校教育が発端にあるという事です。

 

 もちろん、学校教育を行う以前から殺人も虐めもあったわけですが、その数は圧倒的に少なかったのではないでしょうか。これほど社会に蔓延することはなかったと思います。

 

 他人との成長段階が違うだけで発達障害と呼ばれる時代にあっても、殺意を抱く人が何かの障害とは認定されることはありません。もちろん、猟奇殺人などの特殊な殺人では精神鑑定を行うのですが、普通の殺人であれば、それは罪として裁かれるのです。

 

 もし、殺意を抱いた人間が病気という認識を得ることが出来るのなら、事前にその殺意を検証し抹消することも出来るわけで、そうやって殺意を根絶させれば殺人は起こらないのです。

 

 人が人を攻撃する社会を作って於いて、その社会で人が殺意を抱くことを期待し、その結果、殺人を実行させ、待ってましたとばかりに逮捕し刑罰を与えて面目を保つ。

 

 人が何故殺意を抱くようになるかを知らない人間たちは、その殺意を抑える方法も知らないし、生じた殺意のままに殺人を実行するしか道はないと言えるでしょう。

 

 つまり、それは、何時誰がどこで殺人を犯すか分からないという殺人社会を示すもので、とても恐ろしい社会であると言わざるを得ないのです。

 

 そして、多くの人たちは、殺人者の心情を理解しようとすることもなく死刑を望み抹殺することで決着をつけることを望むのです。それは、臭い物に蓋をするという最もやってはいけないことであり、再犯を促すだけ事なのです。

 

 その結果、遠い将来、自分の身内が加害者になり、或いは被害者になるという悲しい未来を自ら選んでいることには全く関心がないのだと思います。

 

 何事も原因が分からないと防ぐことは出来ないのです。起こった事実に対して、如何に真摯に向き合い検証し原因究明を図り、そういう事が二度と起こらないように行動すべきだと思います。

 

 そして、本来人間にはない人を殺すという状況が人間社会から抹消されるようにしなければいけないのです。何故なら、それが本来の姿だからです。