文科省の「発達障害増加」発表で焦る親たちも…小児精神科医が危惧していること(現代ビジネス)
>「保護者や教員の発達障害への理解が進み、対象
>者に気づきやすくなった」と分析している
これは、単なる風邪を新型コロナと名付けPCR検査で炙り出して大騒ぎするのと同じ構図ではないかと思います。
>「こう言った認識の前進は、ひと昔であれば、
>『なんでできないんだ』などと怒られていた子どもたち
そもそも、将来なんの役にも立たない教科が出来ないだけで、何故、子どもたちは怒られなければいけなかったんだ!と気づくべきではないかと。
>と言われています。
>という研究結果もあります。
といった何ともいい加減な噂に誰もが煽られてはダメだと思います。そもそも、発達に障害があるというのはどういうことなのか?
人はみんな違うのです。得意不得意も違うし好き嫌いも違う。ソレを何か一つの分野に限定して比べるという発想にこそ問題が問題があるのではないでしょうか?
この狭い視野にこそ問題があり、多種多様な人間の本質を失っている証拠なのです。そして、その狭い了見が最終的に人間を滅ぼすという恐ろしい原因となるのです。
重箱の隅を突くような小さな事で思い悩み、病に侵され、自らの命を断つ。場合によっては他人を傷つけ他人を殺してしまうに至る。そして、そういう人間に絶望する。
面白いのは、そういう小さい事に拘る人間が、
>と言われています。
>という研究結果もあります。
こういういい加減な言い回しに疑問を持たないところなのです。どうせ拘るのであれば、誰が言ってるんだ!とか、どういう研究でそうなっているんだ!とツッコミを入れるべきではないでしょうか?
そこには、文科省と医者というステイタスがあるからなのです。要は、先生のいう事を鵜呑みするように躾けられているということです。学校教育で小さい頃からそういう風に育つことで、先生のいう事を疑問に思うことなく鵜呑みにする思考が植え付けられている。
だから、
>と言われています。
>という研究結果もあります。
こういう怪しい言い回しでも、鵜呑みにするのです。もし、私が言ったなら一斉に突っ込まれることでしょう^^;
何かが出来ない、何も出来ないという事はいけない事なのでしょうか?
誰だって、最初は何も出来ないのです。そこから少しずつ何かが出来るようになっていく。それを成長と呼ぶ。しかし、そのスピードは全員が異なるのです。
そういう当たり前を消しているのも学校教育であり、みんなが同じように進級していくことで、みんなが同じように成長していくと思いこまされるのです。
だから、そうならないのはおかしいと思ってしまう。本来は、みんなが同じように進級する方がおかしいのです。でも、そういう事を学校でやれば学校教育は成り立たない。
個人の習熟度合いに合わせるカリキュラムにはなっていないから。
それは何を意味するのかと言えば、子どもたちにキチンと理解させることを目的にしているのではなく、習熟度合いに差をつけて、優劣を際立たせることを目的としているという事です。
そうやって、人々に優劣をつけることで、社会のヒエラルキーを構成し、国家が統治しやすいように図っているわけです。そして、そういう優劣を際立たせることで、互いの競争心を煽り、社会で待つヒエラルキーを見せつけ、激しい競争社会を作り資本主義を発展させる。
それによって、国家を維持することが最終的な目的となるのです。
人間が当たり前の持つ違いを利用した人間支配のやり方と言えるでしょう。本当は、異なることで争いは起こらない。だから、人類は長い間争うことなく生きて来れたのです。
しかし、この2000年は神の創造以来、人間の違いが争いの種として使われるようになった。それは、実に愚かな選択であったと言えるでしょう。
その人間支配のアルゴリズムが21世紀という最新の時代であっても疑われることなく生き続けていることに大いなる疑問となる訳ですが、それを未だに成し続けられるのは学校教育という人間を成長させない仕組みにあるのです。