学びの共同・授業の共創〔第2回〕授業の事例研究で大事にしていること(1)授業実践を見るということ、何を見るのか | ぎょうせい教育ライブラリ 

 

 

 こういうのを見ると、今日の教育は非常に高度で洗練されていると感心させられます。こういう教育を受ければ人間は賢くなると多くの人が思うのも仕方ない事だと思います。

 

 しかし、そういう環境で育った子どもたちは残念ながら若年性認知症を患う羽目に陥ると思います。

 

 何故なら、そうやって教えることは本来自分で考えなければいけない事だから。そういうことを考えることが出来る人間を賢いと呼ぶのではないでしょうか。

 

 きっと、そういう思いから、そういうことを教えていこうとするのでしょうが、それを教えることで子どもたちは考えなくなるのです。

 

 かつて、認知症なる病気は有りませんでした。近年増加の一途を辿る病気は沢山あります。その中でも最近顕著なのが認知症ではないかと思います。

 

 今では若年性の認知症というモノまで登場しました。一般に、認知症は物覚えの悪さから診断されるのですが、別に物覚えは悪くても考えることさえ出来れば人間は生きていけます。

 

 実際は、物覚えが悪いというより全く考えることが出来なくなっているのです。その代表が、今から自分は何がしたいのか?ということだろうと思います。

 

 人間を動かす原動力はそれです。その瞬間瞬間でやりたいことを作り出し発言し行動する。人間の人間たる所以の能力ではないかと思います。

 

 しかし、至れり尽くせりの学校教育は、本来考えるべきことまで教えていこうとするのです。そうすることで完璧に教えることが出来るからという教える側の自己満足に依ってそれは為されるのです。

 

 そうやって、教えたことが将来どういう風になるのかを考えもしないのです。単に良い事だから、もっと良い事になるに違いないという思い込みによってそれは為されてしまうのです。

 

 子どもたちに翼を与えてはいけないのです。何故なら、そうすることで自分の翼を使わなくなるから。この道理を是非考えて欲しいと思うのです。

 

 しかも、必死になって教えているのは作図。殆んどの人が一生書かないであろう作図です。そんな無駄な知識を沢山教えるから、脳の記憶容量が減らされ、脳の動きが遅くなるのです。

 

 パソコンにデータを詰め込んだらどうなります?容量を越えたらハングアップですよ。使えなくなるのですよ。パソコンを軽快に使いたければ、データやアプリは必要最小限に留める方が良いのでは?

 

 学びの共同、授業の共創って何なのでしょうか?

 

 言葉だけが躍って、要は、更に教える内容を増やすだけでは?そんなことしたら、認知症になる年齢がどんどん低下しますよ。学ぶというのは真似る、記憶するという事ですよ。

 

 人は学ぶことで考えることはありません。だって、答えを教えて貰うわけですから、覚えておけば良いという事になる。覚えておいて済むことは考える必要がないのです。

 

 その習性は常に教科書を欲するのです。それは、誰かに教えて貰うのを待っているという事です。

 

 レストランに入ってメニューから注文するように、人生もメニューからしか選べなくなるのです。そういう誰かの人生を真似るような生き方が果たして楽しいのでしょうか?

 

 それが楽しければ学校教育を受ければ良いと思います。飽くまでも、それが楽しい人だけです。そして、それを受けることに依るリスクもキチンと知っておくべきだと思います。

 

 全ての事に言えるのですが、全部が良いというモノはありません。良いと思う事にも必ず悪いところはあるということをお忘れなきように!!!