【復活できない名門「東芝」】“倒産せず”で再建は泥沼に、リーダーも見当たらず(マネーポストWEB)  

 

 

 誰もが大きいから大丈夫だと思う。もちろん、船に例えると大きな船の方が小さな船よりも安全であることは間違いない。

 

 しかし、大きい船が沈みだすと止められないという事を忘れてはいけない。それだけ舵取りが難しいのである。大きくなると傲慢になり放漫になるから、本来細心の注意が必要なのである。

 

 そもそも、大きいという事はどういうことなのだろうか?

 

 それは、かつて色んなことが上手くいったから大きくなったという事であり、その大きさが未来を保証することはないのである。この最も単純で重要なことを知らない人間が余りに多すぎるのではないだろうか。

 

 そして、安心の為に大きいモノを選ぼうとする。実に思慮の足りない行動だと思う。巨大企業は何故出来たかと言えば、それは何と言っても大量生産とそれを裏打ちする大量消費が有ったからだ。

 

 そこには、みんながそれを欲しがったというとても大事な理由がある。その陰にあるのは、そういうみんなを育てた学校教育とモノがあるのは言うまでもないだろう。

 

 それが終わったのはバブル崩壊という出来事ではないかと思う。

 

 そして、みんな一緒という価値観が少しずつ壊れていった。それは、ホンの少しずつであるが確実に壊れていったのではないだろうか。

 

 人間というのは本来多様である。十人十色とか百人百様という言葉は昔からあり、個々人が違うのが当たり前なのである。そういう人間をよくもまあ揃えたもんだと思うわけだが、現実にそれをやり遂げたのだ。

 

 もちろん、それは学校教育だけの力ではなく、むしろ、マスコミの煽動報道がより強い力になったのかもしれない。それを支えたのがテレビの普及であったのも見逃せないだろう。

 

 何れにしても、全てが多様を打ち消してしまったのである。しかし、それは飽くまで非日常であり非現実であり仮想であり嘘である。従って、そういうモノから覚める日が来るのは必然と言えるだろう。

 

 そして、今や人々はテレビを見なくなりマスコミの影響力も後退した。それによって作られた仮想みんな一緒市場が壊滅状態となって来たのではないかと思われる。

 

 しかし、名門という名の古代企業は、その変化に対応することが出来ないのである。名門とは言い換えれば古いということであり、それは古い世界でしか生きられないという事でもある。

 

 そして、名門は過去の栄光にしがみつくので未来へは行けないのだ。未来へ行くのに名門は足かせにしか過ぎないのである。この世界とは実に白状で冷酷だ。

 

 昔がとんなに素晴らしものであっても、何ら未来を保証することはない。しかし、だからこそ全ての人に可能性があるという事でもある。そういう点で、ある意味、平等だと言えるだろう。

 

 生きて来た人生に不平等を感じて凹む人間は多いのだが、それは、未来に於いては誰もが同じ土俵に立てるという唯一平等な世界であることに気づいてないからだろう。

 

 むしろ、過去に経験した不平等や理不尽が未来に向かって大きな力をとなるケースは少なくなく、圧倒的に有利という状態にあるのかもしれない。

 

 そして、東芝以上の名門はTOYOTAである。東芝ですら二進も三進もいかない状況に追い込まれているのだから、TOYOTAの未来は更に厳しいモノになると予想できるのではないだろうか。

 

 来年には中国の激安EVが日本に進出するという話もある。人口減少に免許取得者の減少、そして、これまでのユーザーの退職や死亡という確か減少など、ありとあらゆる状況が自動車業界を潰しに掛かって来るのです。

 

 海外はとりあえずの円安で一息つけるかもしれませんが、その円安が一転円高になれば一気に状況は悪化することになるでしょう。アメリカがこの冬のクリスマス商戦で大きな後退が明らかになれば、世界は奈落の底に落とされるかもしれません。

 

 今は、風雲急を告げるという状況には至りませんが、何となく嵐の前の静けさの漂いが感じられるわけで、中国の不動産バブルの崩壊は既に起こっており、その影響もじわじわと日本に波及している気がします。

 

 それでも、多くの企業は平穏を装いながら、水面下では大きな改革に向けが動きがあるのではないかと思うのです。もし、どういう事をしてない様なら、今回のリセッションに依って、多くの大企業が潰れるのではないかと思います。

 

 そんなことはないと高を括るのは自由ですが、これまで私たちが成し遂げた驚異の経済成長は、想像を絶する経済衰退を引き起こす力が隠れていることに気づくべきだと思います。

 

 もう、先生やマスコミに踊らされて何かを欲しがったりする人は殆ど居ない。つまり、消費市場は自由に作れないのです。個々人の自由気ままな消費に左右される危ない領域へと向かっている。

 

 それは、昨日欲したモノが明日は要らないという世界。つまり、今日は百億売れても、明日はゼロになるという世界です。もちろん、データという過去の結果には出て来ません。

 

 そういう丁半博打より確率の少ない商売に希望はあるのでしょうか?

 

 お金を追い求める限り、もはや希望は無いのです。それは、希望という名の絶望なのです。そういう世界から早く抜け出すべきではないでしょうか?

 

 時代をそれを我々に強いているのです。名門に縛られて死ぬか、名を捨てて生きるか。最後に問われるのはこれではないかと思います。