セクハラ・性加害の背景に不十分な性教育 中学校で「性交」を教えることができない理由(1/2)〈AERA〉 | AERA dot. (アエラドット)  

 

 

 

 セクハラ、性加害のない社会にするために、なによりも求められていること、それは「教育」だと多くの人が口にする。
 
 実に尤もらしい考えだが大間違いだと言える。何故なら、相手の立場を教えることは出来ないからだ。
 
 相手の立場に立って物事を考える!
 
 ある意味、コレが出来る人間を大人と呼ぶのだと思う。そして、今やコレが出来る人間は相当に少ないと言えるだろ。
 
 争いの絶えない世界がソレを証明している。
 
 きっと、学校ではソレを色んな方法で教えているのかもしれない。出来ないことを無理してやるから余計に悪くなる。
 
 何故、出来ないかと言えば、他人と自分は違うからだ。学校教育の建前は「みんな一緒」であるから、その不可能を可能に見せてしまう。
 
 要は、他人の立場に正解がないということ。
 
 教育は正解があるから成り立つし、教えることが出来るのである。そういう点で、国語という教科には昔から大きな疑問がある。
 
 話が逸れるが、かつて高校時代に文系、理系を分ける実力テストがあった。自分は文系に進むつもりで臨んだが、文系の基盤となる国語のテストが16点という悲惨な結果を得た。
 
 ソレに対して理系の基盤となる数学は、84点というクラスでもトップクラスの高得点だった。しかし、自分としては国語も同程度を考えてた訳で大きな衝撃だった。
 
 もちろん、全て回答したし自信もあった。要は問題作成者との考え方、感じ方の違いが点数に出たに過ぎなかっただけのことである。
 
 例えば、本を読んで何を感じ何を思うかは個人の自由である。そして、その自由を否定するのが国語という教科なのだ。
 
 要は、国語のテストで点数を取るためには自分を殺さなければいけないという恐ろしい状況に気づいたのである。
 
 でも、普通の人はそんな事気にもしない。
 
 つまり、他人の考えや気持ちなど気にしていないという状況が見えてくる。そして、そういう人間が教育をすれば、その教え子たちもそうなるでしょう。
 
 そういう人たちが大人になったら、もちろん見た目だけですが、他人がどう思いどう感じるかを気にしないわけで、セクハラ、性加害どころではなく、全てにおいて同様の仕打ちを平気で行えるのです。
 
 人間として基本的に身につけなければいけないのは、自分がされて嫌なことはしない!ということではないかと思います。これなら誰だって出来るはずです。
 
 これが出来ない人はある意味、人ではないと言えるでしょう。自分が消されてしまっているのです。何かを感じる自分が居なければ、それを実行することは出来ないから。
 
 きっと、学校ではそういう自分が許されないのでしょう。学校推奨の良い子になることが義務付けられているからそうなるのです。それが嫌ならば登校拒否をする他ないでしょう。
 
 不登校児童が増えている原因はそういうことです。
 
 性教育と、性を中心に教えても意味はない。子どもたちに教えるとすれば、それは「愛」です。そして、「愛」とは極上の「優しさ」だと言えるでしょう。
 
 そして、それはどうやれば教えることが出来るのか?親が居れば親が極上の「愛」で我が子を包むことで体験させることが出来れば教えられるかもしれません。
 
 世の中には愛のない結婚をする人も居るわけで、そういう親の元で育つ子どもが極上の愛で包まれるのは難しいかもしれません。 
 
 基本は誰かに愛されることで愛を知るのでしょうが、そういう人が居なければ、自分が誰かを愛することで知ることも出来るのではないでしょうか。
 
 しかし、今や愛よりお金であり、愛をお金で買うことも出来る時代となっている中で、そういう状況を作るのは難しいと思います。だからこそ、早々にお金を捨てる必要もあると考えるのです。
 
 人間世界で最も重要なのは「愛」だと思います。それは他人を思いやる気持ちであり、それなくして人間世界は成り立たないのです。お金で成り立っている社会では人間は生きていけない。
 
 そのことが今我々に突き付けられているのではないかと思います。しかし、お金に依って作られた複雑な社会では、それに気づく人は少ないのではないかと・・・・
 
 何でもかんでも教える世界は、逆に、教えられなければ何も分からない世界となっているのです。そして、もっと重要な「愛」を失ってしまったのではないでしょうか。
 
 良い事を教えれば良い社会になるという思い込みが、予想外の世界を作ってしまったことで、何をどうして良いかさえ分からなくなったのではないかと思います。
 
 そして、教え方が悪かった、いや教える内容が足りなかったと更に悪い方向へと舵を切り始めたのではないかと思います。もうこうなれば、やれることは学校へ行かないという選択肢だけなのでしょう。
 
 結果的に、幼い子どもたちに辛く難しい判断を委ねることになるのです。出来ればそれは避けたいところですが・・・・