【子ども】不登校でも道はある!「学校に行かない」という学び方(ウレぴあ総研)  

 

 

 何としても「学び」だけは死守したいのでしょうね。それはもはや学業信仰という立派な宗教的発想ではないかと思います。

 

 こういう人たちにいくら学びの本質を説明しても通じないのです。学びが人間にとってどんなに毒であっても・・・・

 

 折角、不登校という学びを拒否する行動に出ても、それを認めることはしないのです。

 

 学業を信仰にすることを否定するつもりはありません。だけど、信仰とは本来、自分がそうすれば良い事であり、それを他人に押し付けるものではないハズです。

 

 それは日本国憲法に於いてもキチンと明文化されている。しかし、学びだけはそれを飛び越えて他人に押し付けて来るのです。

 

 それは、ワクチンの効果をしらないくせにワクチンを強要するのと同じ原理ではないかと思います。何を正しいと決めるかが個人の尊厳であり、そこに他人が介入してはいけないと思うのです。

 

 そして、そういう押し付ける人たちは、メリットだけを説明しデメリットを話すことはありません。そういう一元的な見方しか出来ないお粗末な思考に支配されているという事です。

 

 何事にも必ず長短あるのです。

 

 そういう当たり前の事が出来なくなるのが学びの怖さとも言えるでしょう。

 

 何とも書いている様に、学ぶt事最もいけないことは、考えなくなるという事です。学ぶことと考えることは正反対であり、学ぶ人ほど考えなくなるという大きなリスクがあるのです。

 

 せめて、これくらいは教えてあげましょう。学ぶことでどういう人間になるかと言えば、他人の指示で動く機械の様な人間になる。それを指示待ち人間とかマニュアル人間とか言ってバカにしてるのではないでしょうか?

 

 学びを推奨してそういう人間を作りだしてバカにする。

 

 実に酷い人たちだと思います。結局、学んだあとの人間をイメージできないのです。学びは良い事という思い込みだけで、良い人間を作ると信じて疑ない。

 

 そこから出て来る結果を見ようとはしないのです。そして、そういう人間は学ばないからそうなるんだと違った結論を導いてしまう。自分たちの正しい思いは正しい結果しかもたらさないと思い続けるのです。

 

 何故そうなるのか?

 

 答えは考えることが出来ないから。

 

 何故そうなったのかを考えないから原因が見えてい来ないのです。だから何時まで経っても状況を改善できない。こういう人たちを一般に愚かな人たちと呼ぶのではないでしょうか。

 

 一度、学びとは何なのか?

 

 という事を考えてみてください。学びとは言い換えれば何なのか?言葉の意味を再検証するだけでも変わる可能性があると思いますが・・・