教育現場の「叱る依存」、解決に必要なのは「権力勾配を緩やかにする仕組み」 | 東洋経済education×ICT | 変わる学びの、新しいチカラに。  

 

 

>やり方を工夫するだけで勉強ができるようになる子がたくさんいること。

 

 結局、勉強ができる子をそだてようとするのでしょう。そうやって、育って人間がどうなったかを全く見ていない。このとぼけた、間抜けな行動には呆れるしかないのです。

 

>「あなたに合う方法で学ぼう」というメッセージを発信し、その権利が保障

>される教育現場をつくっていく。

 

 そして、そのとぼけた頭脳はこういう言葉を作ってしまう。どうしても学校で教えられた学ぶことは良い事という根拠のない既成概念から抜けられないのです。

 

>そんなふうに、あるべき姿を多様化・柔軟化していくことで、確実に「叱る

>依存」は減りますし、子どもたちは主体的になっていくでしょう。

 

 叱る依存とは、叱ることしか出来ないことを言うのでしょうか?それは依存というよりもバカの一つ覚えではないかと。これも学校で学んだことであることには触れないのですね。

 

 自分が学びの現場で食っているので、学びについて考えることはないし、学ぶことの現実を解き明かすこともない。教育現場にはそういう人しか居ないのです。

 

 そこで、これまで何度となく書いて来ましたが、改めて学ぶとはどういうことなのかについて書いておきます。

 

 一言で言えば、先人を真似ることです。先人の知恵を盗む事でもある。正しいとされる先人の知識を鵜呑みにして、丸ごと飲み込み自分の知識の様に使う事です。

 

 その結果、学んだ人間に何が起こるのか?

 

 一つは過去にタイムリープしてしまうこと。過去の情報を取り込むわけですから、過去から見た未来である今日という日は、未来を作る現在ではなく、過去を繰り返す現在となる。

 

 つまり、永遠に未来へは進めない状況を生むのです。従って、新しい事が起こると戸惑い悩み苦しむ事になる。その結果、不安に苛まれるのです。今日、不安を抱く人が増えているのは学びのせいだと言えるでしょう。

 

 そして、もう一つは、学ぶことで本当の自分が消されるという事です。本当の自分が持つ考えや意見が、学ぶことで上書きされて消えていきます。学ぶことが正しい事だから、間違った自分が消されるのは仕方ないと思うのでしょうが。

 

 学ぶことで自分が消されると人間は考えることが出来なくなるのです。考えるとは想像することです。今はない答えを自分で想像して作る事。それには確固たる自分という存在が居ないと出来ないのです。

 

 学ぶ人は常に学んだ知識と情報で全てを決めます。それが正解だから、そうしていれば間違わないからという理由で。しかし、学ぶことで得られるのは全て過去の知識と情報でしか有りません。

 

 しかし、私たちは今を生きている。正解のない未来へと向かう今を生きているのです。そこに過去の正解が通用すれば良いですが、もし、そうでなければ、何も出来なくなるのです。

 

 学び続けることで自分がどんどん消されて行く。だから、学ぶ人は更に学び続けなければ生きていけなくなるのです。それは、まるで麻薬の様な作用を引き起こすと言えるでしょう。

 

 他の方法を考えられなければ、同じことを繰り返すだけです。それを馬鹿の一つ覚えと言うのです。だから、叱る依存という叱ることしか出来ない状況は学ぶことで起こる訳です。

 

 学びに多様化などは有りません。単に学ぶテンポやスピードや内容を変えているわけで、何れの場合に於いても、本当の自分は上書きされ、頭は過去にタイムリープされて行くのです。

 

 その結果、学んだことしか出来ないバカの一つ覚えとなる。だから、基本的には学んではいけないのです。過去の知識や情報は、そういうモノがかつてあったという歴史認識に留めなければいけないのです。

 

 過去を鵜呑みにして丸ごと受け入れては、自分という存在が消され、過去に生きた誰かが自分を乗っ取ることになる。それは、自分の人生を生きるのではなく、誰かの人生を生かされるという事になるのです。

 

 そういう人生を生きていると、生きているか死んでいるかもわからなくなるでしょう。端的に言えば、学びは私たち人間を殺す毒なのです。

 

 そして、更なる大問題は、学びに依って毒されても、その実態を自分で知ることが出来ないということにあります。それは、新型コロナウイルスで有名になった無症状感染者と同じと言えるでしょう。

 

 人間に起こる全ての害悪は学ぶことで起こるのです。この世界に鵜呑みにして良いモノは何一つないのです。何故なら、この世界は諸行無常という変化を義務付けられた中にあり、状況は常に変化し続けるから。

 

 そういう中で学び続けるから我々の状況は年を追うごとに悪くなっているのです。しかし、この文明がそれを隠している。豊かな社会が状況の悪化を我々から見せなくしているのです。

 

 そして、今、豊かな社会が壊れ始めたことで、人間社会の状況の悪化が一気に表に出て来ている。それでも学びは止められない。それは正に人間が学びに依存しているからに他ならないのです。

 

 学んだ先にあるのが脳死という事がようやく見えてきました。今は痴呆という言葉で留まっていますが、痴呆とは脳死に向かう途中の脳なのです。

 

 それは、学ぶことに依存し考えるという人間本来の能力を捨てたことで、この大きな脳が不要になったから起こる退化なのです。そういう現実を見せつけられても、それが何故起こるかを考えられないので何も出来ない。

 

 そして、バカの一つ覚えで、痴呆を病気と呼び薬という名の麻薬を作っているのです。本来起こらない異常を病気としか言えないバカの一つ覚えが招く悲劇だと言えるでしょう。

 

 その原因やメカニズムを解明できない学んだ脳は、それでも学ぶことを止めれないという依存に陥ってしまっているのです。もはや手の施しようがない状態と言えるでしょう。

 

 気づかないというのが如何に恐ろしい事なのかを我々は知らなければいけないのです。そして、何故、気づかないのか?何故、気づけないのかということに関心を持つべきだと思います。

 

 状況が悪化するという現実が、私たちに気づくチャンスを与えているのに、そのヒントを全く活かすことが出来ない鈍感さが問題なんだと思います。

 

 何故、そこまで鈍感になるのかと言えば、感じる自分が消えてしまっているからです。もちろん、学びがそれをしているから。人間にとって学びは致命的なのです。

 

 絶対にやってはいけないことなのです。従って、ある意味、学びを強いる行為は殺人以上に重い犯罪と言えるでしょう。何故なら、本当の自分というこの世で一番大切なモノを消すからです。

 

 あなたの思うように他人を動かしてはいけない。それはこの世で最も重い罪であり、それは最も醜い姿だから。思うように動く他人は既に死んでいるのです。

 

 こういうことを書いている人がどれ位居るかは知れいませんが、出来れば、学ぶという行為について深く検証してみてください。学ぶことによって自分がどうなるのか?

 

 それは本当の自分なのか?本当の自分を捨てるという事がどういうことで、そのことに依って何が起こるのか?本当の自分を無くした自分はどうなるのか?

 

 もっと、自分を大切にして欲しいと思います。そうしないと、何のために生まれて来たのか?どうやって生きていくのかさえ分からなくなる。

 

 そして、今もし、そういう状況であるならば、それは学ぶことで自分が消されたから起こる現象だという事に気づてい欲しいと思うのです。そういう状況になることで何を感じ何を思うのか?

 

 そこで見たモノが学びの副作用となります。もし、そこから逃げたければ、そこから抜け出したければ、方法は一つでありとても簡単なことです。

 

 そう思った瞬間から、学びを止めること。知識や情報から逃げることです。学びは時間と共に消えていきます。記憶は常に上書きされ葬り去られて行く。

 

 そして、葬り去られて行く学びが増えていけば、自ずと自ら考えるという人間本来の行動が始まるでしょう。そして、自分の考えで自分を復元していくのです。

 

 そうすることで本当の自分が蘇って来る。学びが多い人ほど時間が掛かるとは思いますが。そやって本当の自分を蘇らせることで人生は大きく変わると思います。

 

 当然、これまで学びで築いたモノは失う事になるでしょう。しかし、それは本来の自分のモノではないのです。他人から奪った偽物。そういう者は、何れ誰かに奪われることになる。

 

 だから、大抵の人は常にビクビク怯えながら生きているのです。本当は、怯えて生きている現状でそのことに気づてい欲しいのですが。

 

 本物は色あせないし失う事はありませんので生きることが楽になる。そして、その本物を見つけられるのが本当の自分なのです。

 

 学びという人間にとって最も危険な行為を見ていくことで、色んなことが見えて来るのです。大事なのは、奇跡で生まれた自分の人生を、その期待通り、いや期待以上の人生にすることではないでしょうか?

 

 私たちの人生は一度きりであり、もう二度とありません。だとすれば、この一生を何倍もの有意義な人生にしないともったいないと思うのです。

 

 学びという先人たちが気づかなかった害悪を経験し、そこから抜け出せれば二度美味しいわけで、それを変えたから損という事ではないのです。

 

 人生はしない後悔よりする後悔なのです。というより、やらないければ後悔はない。後悔のない人生とは、要は何もしなかった人生という事になるのではないでしょうか?

 

 まあ、後は好みですね。本当の自分を叩き起こして聞いてみましょう!