日本の学校教育が何のために作られたかは何度も書いて来たので改めて書くことは控えます。根本的には、国家の為にという事です。国家を支える国民という名の兵士、悪く言えば奴隷を作る為です。

 

 そんなことの為に教育をするから人間が壊れてしまう。そして、先行き不透明な今日、教育も不透明になっている。不透明というのは、経済情勢が危うい事から起こっているわけで、少子化による人口減少は厳しい現実を突きつけているわけです。

 

 コンピュータや機械が進化し、何れ人間の仕事はなくなるという資本主義をぶち壊す脅威が囁かれ、企業どころか国家の存在さえ危ぶまれる事態になって来ているわけです。

 

 その結果、学校教育が果たす役割は薄れてきており、教育関係者と親たちが不安を抱いているのではないでしょうか?

 

 オルタナティブ教育などというちょっと目先を変えた教育が話題となり、新しい教育を施すことで素晴らしい未来を築ける気がする人も居るのではないかと思います。

 

 しかし、そこで育てようとされるのは、新たな経済戦士であり、新しい起業家、新しい事業化を育てようとしているだけではないかと思います。オルタナティブという英語を使って感じを変えているけど、教育の目的は殆ど変わらないわけです。

 

 そこには、新しい教育投資がされるので、そのリターンを考えれば、目的が変わらないのは当然のことだと思います。つまり、全く変わらないという事なのです。

 

 そもそも、明治の初期教育から脱皮した戦後教育は、一体何を目指したのでしょうか?敗戦によって全てを失い衣食住さえままならない時代。それは、今では想像できない程貧しい時代であったと思います。

 

 それを払拭するには学問によって個人のスキルを上げれば良いと小学生なら考えるでしょう。そして、豊かになる為にはモノ作りが必要だと思うわけで、それを為すための教育が行われ、それが見事に功を奏して今日を築いたわけです。

 

 貧しかったからそれは出来たこと。そして、それを払拭することでどうなるかをイメージ出来たから実現したのです。そして、そこでイメージしたことは何なのか?

 

 それこそが、戦後教育の本当の目的ではなかったのかと思うのです。それは、常にいつの時代も人間が誰でも欲して止まないモノ。

 

 幸せです。

 

 合言葉は、豊かになれば幸せになれる・・・だったのではないでしょうか?

 

 そして誰もがそれに賛同し支持したのです。だから、豊かさが実現できたのです。そして、実現できた豊かさの中で私たちは幸せになったのでしょうか?

 

 きっと、この検証はされていない。検証する前に豊かさに歪みが生じ格差をもたらせたことで、検証する気にはなれなかったのでしょう。

 

 でも、終戦と比べれば一目瞭然であり、こういう社会で幸せなのかどうかということも検証できるのではないでしょうか。そして、きっと答えは「NO」だと思います。

 

 豊かさが人間を幸せにすることはない。むしろ、不幸にしてしまったという事ではないでしょうか。いや、まだ途中であり最終決断をするのは早いという人も居るでしょう。

 

 しかし、物事には傾向というモノがあり、幸せに向かっているから否かは見当がつくはずです。そして、少子化という状況が不幸を示している。

 

 幸せな大人の特徴は、この幸せを誰かに知って欲しいと思う事です。その最大の相手は我が子という事になる。つまり、子を持とうとしないということは、不幸な人生を継承させたくないからなのです。

 

 そういう厳しい結果を突き付けられても、教育で豊かさを目指そうとする。それがどんなに間違っていても変えられないのです。

 

 それは、人が幸せというモノを知らないからという事が根本的な理由ではないかと思います。幸せは個人が感じる感情であるために教えることが出来ないのです。

 

 ある意味、戦後の学校教育の間違いはそれを教えようとしたことにあるのかもしれません。それも豊かになれば幸せになれるという間違った答えを。

 

 何故、幸せが教えらえれないのかと言えば、それは当たり前と見えるからです。例えば、五体満足の人は不自由な人の感覚は分かりません。そして、それがどんなに幸せなのかも分からない。

 

 でも、不自由だから不幸というわけではない。それだって、この世に生きているから意味があるし幸せにもなれるのです。

 

 人間は賢くなろうと目を使います。そして、目に見えるモノから学ぼうとする。しかし、大事なことは全て目に見えないところにあるのです。目に見える現実は当たり前の世界。

 

 そして、目に目ない世界は奇跡の世界と言えるでしょう。私たちが今生きている現実というのは、それを作った目に見えない奇跡によって築かれているのです。

 

 それは、自分という存在がこの世に誕生する過程を想像すれば分かることではありますが、それをやる人は居ないし、やろうとさえ思わないでしょう。

 

 しかし、例えば、人を好きになることで起こる様々な現象を知ることは出来ると思います。それは、自分だけに起こることではなく、自分の父母や祖父母にだって起こったことなのです。

 

 その気持ちが成就され結婚まで行くことは相当困難だと思います。そして、その先に待っている受精という子を授かる現象に至っては、億分の一という非常に稀な奇跡によって生み出されているのです。

 

 その結果、自分はこの世に出て来ている。そして、過去を振り返れば、その困難さと奇跡が無限と呼べるほど幾重にも重なっているわけです。それが、どこか一つ狂っていれば、今の自分は居ないという事になる。

 

 神秘的ではあると同時に、非常に怖い事でもあるでしょう。

 

 子どもたちには先ずこのことを教えるべきではないでしょうか?そして、親ならば分かると思いますが、我が子が生まれる時に、無事に生まれてくれるだけ良いって思う事でしょう。

 

 そうやって全ての子どもたちはこの世に生を受けるのです。その存在だけを期待されて生まれる命。これこそが私たち人間の原点ではないでしょうか。

 

 だから、誰もが自分という存在を大事にしなければいけないのです。そして、その存在を消すような教育をしてはいけない。唯一無二なる自分という存在を如何に最大限に活用するかを考えなければいけないのです。

 

 それは、自分にしか出来ない事です。他人は決して口を挟んではいけない。互いに見守りながら互いの道を生きていかなければいけないのです。

 

 それは、決して楽な道ではありません。だって、誰かを真似ることが出来ないから。しかし、それは自由で無限の道であると思います。だから、考える=想像することでしか進めない道だと言えるでしょう。

 

 そして、人間は誰もがそれを出来る能力を備えているのです。だから、誰もが幸せになるようになっているのです。教育で潰されなければ・・・・

 

 人の幸せは次なる幸せを生むのです。それを日本では子宝と呼びます。そして、人間社会は宝で溢れる。これが人間社会の本来の姿ではないかと思います。

 

 目的を失った手段は葬り去られる。教育という手段が消えていくのにそんなに長い時間を必要としないかもしれません。