「なぜ私たちは自殺をしてはならないのか?」、哲学・思想の歴史から導かれる「意外な答え」(現代ビジネス)  

 

 

 何故、何でもかんでも歴史に倣うのでしょうか?答えが出せてない歴史に問うても詮無い事ではないかと思います。

 

 そもそも、自殺とは何なのでしょう?私たちの多くが発する自殺とは自死という自ら命を絶つ行為ではないかと思います。自分で自分を殺すから自死も自殺の一分野だと思いますが・・・

 

 しかし、自殺という自分で自分を殺すという行為の大半は自死ではないのです。自分の意志を殺す、自分の考えを殺す、と言った行動こそが、本来の自殺になるのです。

 

 そして、宗教の誕生以来、人は神の名によって自分を殺し続けている。だから、自殺をしてはいけないということが理解できないのです。

 

 自殺には二つの種類があります。一つは自分の意志でそうすること。大抵の人は生きていくために本当の自分を殺しているのが現代社会です。それを一般には「自分に嘘を付く」と呼びます。

 

 そして、もう一つは、私が忌み嫌う学びによって、自分では気づかない間に自分が殺されているという事です。それを「洗脳」と呼びます。

 

 宗教誕生以前には余り見られなかった自殺となります。今や人間は、学びという洗脳によって殆ど死んでいる状態です。死んでいる人間には、何故、自殺がいけないのかを答えることは出来ないのです。

 

 言わずもがな、最も死んでいる人間は、最も学問に精通している学者や教授という事になるでしょう。彼らに自分はないのです。誰かの意見をインストールした脳は、言い換えれば誰かのコピーであり、そこに自分はない。

 

 自分がない人は簡単に自死が出来ます。それでも、自死は死亡原因の僅か数%に過ぎない。いや、数%で止まっているという方が正しいでしょう。

 

 それを抑えているのがお金です。資本主義というお金があれば何でも出来るという生きる理由を生み出しているからなのです。お金が作る煌びやかな世界に入ることで、消えた自分を忘れることが出来るから。

 

 ある意味、宗教の誕生で資本主義になることが運命づけられていたのかもしれません。しかし、どんなに着飾っても消えった自分を取り戻すことは出来ないのです。

 

 学びに依る洗脳で殺された人間は、人間本来の生きる意味を失っているわけで、気を紛らわす資本主義の衰退によって、少子化という人類滅亡への道を辿る事になるのです。

 

 今や殆どの人間はお金のために生きている。お金を稼ぐために仕事をする機械と化している。それが人間のあるべき姿だと思っている。

 

 人間は死んでいる機械ではないのです。生きている動物なのです。この意味さえ今や分からない人が多いのではないでしょうか?

 

 全ては宗教から始まった教育・学問が人間を洗脳することで、人間を殺してしまったことに依るモノです。神という絶対的な架空の存在を作り出し、それに近づくようにと洗脳していった事から始まっている。

 

 それが素晴らしい事だから、それが理想的なことだから、誰も逆らえないのです。そして、神の意に反する自分を自ら殺していく。知らないところで洗脳されているから、それがどんなにやってはいけない事だとしても、それを知ることが出来ないのです。

 

 そして、人間が人間として持つ心に感情に悩まされる結果となる。人間を人間として生かすためにある心が疎ましくなり、心を閉ざすという本末転倒な行動に出るのです。

 

 この世界に自死する動物は居ません。それが自死してはいけない理由です。生き物とは生きるために生まれて来るものだから。従って、自死する時点でもう死んでいるという事です。

 

 もちろん、人間を自死に追い込むのは神であり、神の言葉であり、学問の言葉である。何の意味もない言葉を幾重にも重ね、貴重な言葉に見せて我々を殺しているのです。

 

 前にも書きましたが、言葉の最大の特徴は嘘が付けること。そして、その嘘を全人類に広めることが出来るという事です。そして、この世界はお金という嘘を生み出し、それに狂喜乱舞している。

 

 そして、それを見破る心は既に死んでいて機能しないのです。後は、居もしない皆という言葉に騙されて、有りもしない他人の人生を生きる機械となって存在しているのが今の人間なのです。

 

 自分の考えを持たない端末・・・・実に悲しい結末だと思います。そして、それに気づかないという現実が更なる悲劇をもたらすのです。