「一人で死ね」は自分に返る「『死刑になりたくて…』」著者が感じた希死念慮の行方〈AERA〉(AERA dot.)  

 

 

 
〉自分の希死念慮の根っこがどこにあるかを
〉考えてみると、教育という場で集団から排
〉除される感覚を少しずつ育ててきたように
〉感じる。
 
〉勉強ができないからダメ、
〉運動ができないから、
〉声が小さいから、他の子と同じことが
〉できないから、ダメ。
 
〉あらゆる場面で「正解」からズレるたび、
〉この社会から拒絶されているように感じていた。
 
〉それは私だけでなく、多くの人にとって身に
〉覚えのある感覚だと思う。立派な人間だけが
〉生きることを許された世界は苦しい。
 
 と書きながら、何故、学校教育を止めようと訴えないのでしょう?
 
 個人を排除する学校という存在を認めながらも、問題意識は皆無なのです。
 
 個人的には殺人という行為は、自分が殺されることで起こると考えています。自分を殺された人間は他人を殺すことを何とも思わないのです。そして、何度も書いている様に学校では日々、子どもたちを殺している。
 
 問題なのは、それを良かれと思ってやっているという事です。子どもたちが将来苦労しない様に。幸せになれる様にと思って、実際は、そこに居る子どもを否定し排除する。
 
 要は、子どもたちの本当の自分を消しているわけです。そして、教師の望む人間、会社の望む人間を作っていく。もちろん、それにそぐわなければ切り捨てるし排除する。
 
 まさに、鬼のやることです。だから、そこで育つのは他人を殺しても平気な鬼ばかりとなる訳です。そういう鬼が住む世界がどうなっているかは、現実の世界を見れば分るのではないでしょうか?
 
 至る所で、大した意味のないバカげたことで言い争い、互いに攻撃し合って休む暇もないでしょう。いつ足をすくわれるか分からないから・・・
 
 生命体とは生きるために生まれて来る命であり、自ら死にたいとは決して思わないのです。少なくても人間以外に死にたいと思う生き物は居ない。
 
 この事実から我々は悟らなければならないのです。一体、何が我々を死にたいと思わせるのか?
 
 しかし、残念ながら、学ばせるだけの教育しか受けていないので、何故?という疑問を持てないのです。何かに疑問を持ち、何かを考えるとか何かに気づくという事が出来ないのが現代人なのです。
 
 だから、誰も助けてはくれない。何かが上手く行かなくなれば、死ぬしか手はないのです。まさに地獄の様な世界です。実に恐ろしい世界だと思います。もちろん、人間社会を地獄に変えたのは学校教育に他ならない。
 
 人間は実に弱い生き物です。何故なら、自分一人では生きていけないから。そこが他の動物とは根本的に違う所であり、実は、そこに人間の持つ偉大な力があったのです。
 
 弱いから互いに助け合う。この互いに思いやる気持ちが、人間社会を優美なモノに変えたわけです。しかし、そこで人間は勘違いする。この文明を築いた力を鼓舞し、人間は如何なる動物よりも優れていると。
 
 しかし、それは単なる錯覚であり、お金というまがい物で他人の力を搾取することで優れている様に見せていただけだったのです。実際は、弱い人間は、文明の利器によって更に弱体化し、今や利器を動かす電気が失われたら人類は滅亡するところまで来ているのです。
 
 だけども、何故を持たない現代人はそこに気づくことは出来ない。
 
 命を奪う学校教育は、最終的に人類そのものの命を奪うことになるのです。詳しくは「学校で勉強するからバカになる」とか「人類滅亡へのシナリオ」と言った本を見れば分ると思います。
 
 人に人殺しをさせないためには、学校教育を止めれば良いのです。人間を排除し殺す学校教育を排除すれば、人間は社会から排除されなくなり、人間を殺そうとは思わなくなるでしょう。
 
 もちろん、学校教育を止めれば、国家も資本主義も消えることになる。
 
 そんなバカな!!!と思うかもしれませんが、学校教育の力はぞれだけ絶大なのです。そして、その絶大な力によって我々人間は国家の奴隷となってお金という国家が発行する紙切れに支配される。
 
 21世紀の今日でも奴隷制度は脈々と続いているという事です。