安倍元総理の銃撃以来、割とカルトという言葉が頻繁に出てくる様になりました。そこで改めてカルトについて考えてみたいと思います。

 

 カルトとは別に悪い言葉ではなく、儀礼とか祭祀という宗教的な意味を持つ言葉に過ぎないのですが、響きが何となく胡散臭い。

 

 そこから新興宗教をカルトと呼ぶようになったのでしょうか?ソレはともかく、響きである胡散臭いという感じは実に適確だろうと思うのです。

 

 そもそも宗教は胡散臭い。実在しない架空の存在を神と名付けて人々を支配してきたところからもそう見えるのです。

 

 ただ、ソレは私がそう見えるのであって、神を信じている人からすれば私は哀れに見えるのかもしれませんね。

 

 かつては宗教が支配し国家を成して来たことは歴史を見れば分かるし、日本に於いても明治維新で神道という宗教を立ち上げ天皇を神にして国家を作ったわけです。

 

 人間をまとめる事は非常に難しい。

 

 本来は人間は個性的で他人の言うことを聞かない。一人一人が独立した存在であり、そういう能力を個々人が兼ね備えているからです。

 

 そして、まとめるためには誰かの言うことを聞かせないといけない。そのために神という架空の存在をでっち上げたと言えるでしょう。

 

 ソレが上手くいくまでに相当な時間と労力を要したと思います。他人の言うことに耳を貸してくれる可能性があるのは困っている人たち。

 

 そういう人たちを神の名によって救って来たことで段々と神を受け入れさせていったのだと思われます。

 

 そういう点で世界は、常に困っている人たちが動かして来た事が見えてくるのではないでしょうか?

 

 しかし、ソレは飽くまで騙しに過ぎないのです。

 

 「信じる者は救われる」ではなく、気づかないだけのこと。そして、救われることなく信じ続けて人生を終えていったと思います。

 

 更に信じた時間が長くなればなるほど、ソレを騙されたとは認められなくなるのです。二度とない貴重な人生を騙されたと思うことは辛いから。

 

 この思いが宗教を終わらせない要因だと思います。もちろん、ソレが国家も終わらせないし国家を維持する資本主義も死守しようとするのです。

 

 これがカルトの怖いところです。一度信じたら、一度思い込んだら、そこから抜け出せなくなる。

 

 この世界は、この表現に当てはまることだらけではないでしょうか?

 

 ソレは有能な人間でさえ引きずり込まれる。

 

 何かを信じる事は別に悪いことではありませんが、信じ続けることは危険なのです。何故なら、問題点を見逃すから。

 

 人をまとめる為に、学校教育で個性は殺される。この時点で、誰かの言葉を信じて騙されるカルト予備軍が誕生するのです。

 

 日本に於いてカルトとは、他人を操ることであり、それは宗教の目的でもある。人間を操り束ねることで人類は大きな力を得てここまで発展を遂げることが出来たのですが、その陰で、実は人間そのものが殺され壊され続けたのではないかと思います。

 

 カルトの特徴として自分に都合の良いところしか見なくなるというモノがある訳ですが、ここまでの人類の発展を見る人たちの多くは、その陰で失われたモノを見ることが出来ないのです。

 

 つまり、宗教から始まった人間社会は、資本主義というカルトを作り出したのではないかと思います。カルトが作る思い込みは非常に恐ろしいモノであり、それは他人に支配された人間の恐ろしさであるという事でしょう。

 

 本来私たちは、誰もが自分で考えて行動できる能力を持っている。

 

 この自然の摂理を捨てることで人間が壊れたのだと思います。従って、人間を元の状態に戻すには、宗教から始まった人間を支配するモノを全て排除することが必要であり、その根源である学校教育を止めることが最重要課題であると思います。