私は常に考えることの重要性を訴えてきました。自分で考えて行動することが何より大切であるということ。それは、学校教育のせいで考えるより学ぶことを優先する人が多いからです。
そして、「学校で勉強するからバカになる」という奇想天外の本まで書いたわけで、そこには学ぶことリスクを書き、学びが決して人間にとって良い事ではないという事を、多分、世界で初めて証明したと自負しています。
近年、終活という言葉が注目され、そこで登場したのがエンディングノートでした。自分の思いや考えを文字にすることで整理することやったわけで、それは多くの人たちに有意義な結果をもたらせたのではないかと思います。
よく、人生設計という言葉を耳にすると思いますが、人生という一大事業を悔いのないようにする為には、設計図がいるということです。家にして巨大な高層ビルや橋などの建造物から、電車やバス、飛行機といった乗り物、洗濯機や冷蔵庫と言った白物家電や、パソコン、スマホと言った情報機器まで全ては設計図によって作られるわけです。
そんなことは当たり前であり誰だって知っているのですが、自分の人生に対する設計図を持っている人は殆ど居ないのではないでしょうか?あるのは、目標や目的だけ。
ある意味、如何なる建造物よりも壮大なスケールで作られる我々の人生。
そして、色んなものに影響され波乱万丈となる人生に於いて、設計図は必須ではないかと思うわけです。もちろん、建造物や機械を作る設計図とは全く異なるでしょう。
何故なら、形は無いから。更には世界に一つだけのモノだから。
だから、大抵は個々人の頭な中だけで築こうとするのです。実は、そこに落とし穴がある。人間の脳が常に移り変わるから。それは、恐らく色んな状況に対応するためにそうなっていると思います。
良くあるのは、初心を忘れるという事。諺にも「初心忘るべからず」というのがあるように、人間は常に忘れる生き物なのです。だから、学校教育では記憶を鍛えるのでしょう。
常に揺れ動く状況で、悔いのない生き方をするためには、自分というモノをキチンと理解し、それに準じて行動しなければいけない。しかし、世の中はそれを常に邪魔するのです。
従って、自分を常に書き留めるという行動が必要になります。かつては、日記をつけなさいとか言われたりしましたが、その時々の自分の考えや感情などを常に文字に残して置くことは非常に重要なのです。
そういう事から自分の芯を確立していく。頭で考えるだけでは、それを築くことは非常に難しいのです。
私たちが記憶しようとするためには書くことが一番良いのです。恐らく、勉強という行為はそれをやって来たのではないかと思います。ただ、勉強は他人のことを書いて覚えたに過ぎないのです。
本来は。一番大事な自分の為に、それをやらなければいけない。
だから、大抵の人は自分がなくなるのです。自分の中に他人が入り込み、その他人に支配されてしまう。それが学校で便k票する最大のリスクと言えるでしょう。
考えを文字にすることで考えは整理されていく。それは考えが熟成していくと言えば分かりやすいでしょうか?物事の本質が見えて来るのです。
これを書くことなく出来る人は居ないでしょう。
学校では覚えることを強いています。例えば、学校でテストをやる時には教科書はしまいましょうと言われる。そして、教科書に書いてあることを覚えていないと良い点数は取れない。
実に陳腐で意味のない事だと思います。
従って、教科書を見ながらテストを受ければ全員が満点を取れるでしょう。しかし、それでは優劣はつかないし成績は付けられない。逆に言えば、我々を意味のない点数で差別化するために勉強させているという事です。
大事なのは、そんなことではない。教科書に書いてあることなら教科書を見て解けば良いのです。どうやれば問題が解けるのかなのです。そして、いずれ教科書にない問題に出くわすでしょう。
その時に真価が問われるわけで、それまでに更にどうすれば問題が解けるかを考える癖をつけることが重要なのです。ということを教えなければいけない。
最終的に、記憶では問題は解けないのです。考えることで解くしかないのです。だから、覚えることに意識を持っていくと問題が解けない人間になるということです。
だから、個々人をそんな陳腐なテストで差別化しても何の意味もない。という事に気づかなければいけないのです。
最終的に人間をどうしたいのか?
如何なる問題や困難に対しても諦めることなく解決を目指していける人間に育てたいのではないのでしょうか?
覚えることで問題が解けるほど人生は楽ではないのです。しっかりと自分で考えていかないと自分の道を歩くことは出来ないし、そういう人では他人の役に立つことも出来ないのです。
人間の脳に差は殆どありません。しかし、実際はまるで脳に差があるように大きな違いが生まれます。それは、脳の使い方が悪いからそうなるのです。
何故、悪いかと言えば、そういう風に学校で教わったからという事になる。そして、学校で教わった頭の使い方の先にあるのは痴呆という脳死です。これは、現実が証明しているので改めて書くまでもないでしょう。
これまで、常に自分で考えて行動することを訴えてきましたが、それに至る道筋として、今回初めて書くことの重要性を示すことが出来ました。
自分がやっていることは意外に分からないのです。それを教えてくれるのが他人であると私は思います。
人間の脳は物凄く有能であり、色んなことを考えるのです。しかし、それは次の瞬間跡形もなく消え去る。そして、それを思い出すことは非常に難しいのです。
私は、こうやって書きながら自分の考えを熟成させているのですが、読んでもらえば分かるように、内容はどんどん変化していきます。そして、それは、書き始めたころに予期していたわけではないのです。
私は物語も書きますが、今書く物語と次の瞬間に書く物語との違いを知っているのです。それを個人的には奇跡の出会いと思うわけですが、同じ内容同じ文章は二度と書けないのです。
自分の閃きや考えをメモに残して置ければ、実はもの凄い財産になる。そういうものの中には世界を救うアイデアが潜んでいるかもしれないのです。
しかし、メモしておかなければそれは二度と見ることはありません。私たちhが考えたり感じたりすることはたった一度だけなのです。同じことを二度考えることもないし、同じ感情も二度とない。
私たちは、二度とないこの一瞬を当たり前の様に生きているのです。この錯覚によって人生を台無しにしている人が実に多いと思います。
唯一無二の自分という存在と、二度とない今という一瞬を感じられるのが本来の人間ではないかと思います。そういう人間は常にワクワクするでしょう。
しかし、世の中でワクワクしている人間は少ないわけで、大抵は詰まらないと思っている。生きることをそういう風に思わせている張本人も学校教育なのです。
自分という存在を文字にすることで、全ての本質が見えて来ると思います。そして、そうすることで世界は変わる。この資本主義と言う世界が如何に陳腐であるからを知る事になるでしょう。