「毎日が同じことの繰り返し」そんな退屈な人生が激変する"ニーチェの画期的なメソッド 

 

 

 

〉これを繰り返すうちに、少しずつ永遠に繰り
〉返す価値のある大切な時間だけが残り、充実
〉した日々を送れるようになる。
 
 こんなことをするから詰まらなくなる。今から200年近く前の人間が考えられるのは所詮この程度なのだが、ソレを未だに信奉する信者が居ることが問題だと思う。
 
 コレが学問の弊害で、「勉強するからバカになる」所以と言えるのです。人生が退屈に見える目が死んでいるのです。
 
 私達が生きる時間に同じことが繰り返される事はないのです。何故なら、我々が抱く感情が違うから。
 
 脳が認識する知識や情報と言うものには同じものがあるけど、感情にはソレがないのです。勉強して脳を鍛えると感情が乏しくなり、ソレを感じられないから同じことが繰り返されている様に見える。
 
 だから、本当は同じに見える目を変えなければいけないのです。しかし、それしか見えない人にはそれが正しく認識されるので、退屈な人生となってしまう。
 
 実にもったいない話だと思います。そもそも、我々がこの世に生まれ出る確率と言うモノを考えたことがあるのでしょうか?確率は天文学的なレベルであり、想像することは難しいでしょう。
 
 しかし、例えば今日恋愛や結婚と言うモノのハードルが上がり、少子化と言う事態に見舞われている。それは、厳密に言えばハードルが上がったのではなく、個人のスキルが低下したと言えるのではないでしょうか?
 
 それでも、好きな人が出来て告白することの難しさや、それが上手くいって付き合うことの難しさ、更にはそれが続いて結婚までたどり着く難しさは容易に想像できるのではないかと思います。
 
 人間が何時から恋愛と言うモノを経て子を儲けるようになったかは知りませんが、他の動物から見れば非常に複雑で困難なハードルと持っているのは間違いない。
 
 そして、それが成就し人もそうでない人も、それが奇跡と思えないことはないのではないでしょうか?一体、それが何度繰り返されれば自分の命に辿り着くのか?
 
 この果てしない歴史の末に自分がココにいるのは間違いない事実であろうと思います。後は、その事実から過去を想像できるかどうかに掛かっている。
 
 それが想像できる人は豊かな人生を歩めるし、そうでない人は退屈な人生となるように思います。そして、この創造は理論ではない。理屈ではないのです。
 
 最近では恋愛を理屈で語る人が増えているのですが、人間の感情とそこから生まれる想像は理屈では説明できない神秘の世界なのです。だから、それを学問では解き明かせない。
 
 我々は学問の行く末を充分見てきていると思います。学問は万能ではない。出来ることはむしろ限られているのです。その限られた世界に閉じ込められるから退屈な人生となるのです。
 
 目に見える限られた世界に閉じこもるのではなく、人間だからこそ持っている目には見えない無限の世界を知ることで、見える世界は一変すると思います。
 
 見えるモノの背景を見る。そこには、人間にしかない何故という疑問から始まる世界なのかもしれません。学問も本来はそこから始まったのでしょうが、途中から権威と言う人間の陳腐な価値観に支配され本来の目を失ったのだと思います。
 
 そして、どう生きるかではなく、どうすれば成功するかという陳腐な妄想に囚われ、未知なる可能性を自ら放棄して来たのです。まるで子どもだと思います。
 
 子どもを大人に育てるのが教育と言うモノなのでしょうが、逆に子どもに拍車を掛けてしまったわけです。この21世紀と言うデジタル文明の中でも、頭は200年前のアナログ文明に居る。
 
 早く、このタイムスリップから逃れなければ、人類に未来はないと思うのです。自分たちの言動から何が見えるのか?それが顕著なのは学者であり、その学問全盛の時代に居るのが分かると思います。
 
 従って、それに関心するようでは不味いでしょう。それは、その時代からこれまでを反故にする行為であり、自らを卑しめることだから・・・