トヨタが「意志ある踊り場」に立てた世界生産計画の中身
 

 政府の肝いりなのか、マスコミの忖度なのかは分からないが、トヨタの言動がポジティブに報道されていることに違和感がある。

 

>堅調な新車販売を受け挽回生産を織り込んだ高い生産計画を

 

 とあるのだが、先日紹介したように

 

【トヨタ ノア/ヴォクシー 新型】ガソリン車は2-3か月、HVは半年待ち…でも売れない

 

 によれば

 

>トヨタが明らかにしている月販基準台数はノアが8100台、

>ヴォクシーが5400台となっており、モデルチェンジ直後は

>月販目標の2~3倍の勢いで売れることが普通なので、

>実績はかなり少ない。自販連によると対前年同月比は

>ノアが51.%、ヴォクシーが29.2%。

>トヨタでは新型車の販売実績を公表しておらず、いっぽう

>自販連の数字は車名別なので旧型の“在庫処分”が含ま

>れる可能性もある。

 

 とあるように、最も売れ筋であったワンボックスが半減しているわけで、「意志ある踊り場」などと余裕かましている状態ではないはず。

 

 2021年の決算が5月上旬に発表されるので、昨年の状況が顕わになるのではないかと思うが・・・多額の内部留保を持つ企業が粉飾しても外部には漏れづらいのではないだろうか?

 

 会社も人も余裕がない時ほど余裕ある振る舞いをしがちであり、大企業であればあるほどその傾向は強いと思われる。そして、そういう行動が仇となり傷口を広げ取り返しのつかない状況を招くのが常であり、もしかしたら、トヨタはもはやその域にいるのかもしれない。

 

 きっと、彼らはとにかく時間を稼いで、その間に何とかしたいと考えているのだろう。コロナが終わり需要が回復したら、或いは、少子化が改善されたらといった他力本願になるはずだ。

 

 それは、自力回復の望みがないということであり、昨今の半導体やハッキングや地震といった外部環境を理由にした被害者的発想では、先行きは危ういとしか言えないだろう。

 

 市場占有率が増える企業は、市場に左右されるためにそうならざるを得ない訳で、トヨタという巨大企業のアキレス腱はそこなのだと思う。

 

 従って、そういう巨大企業こそ、この市場収縮の影響をまともに受けることになる。そして、それを凌ぐ手はリストラ以外にないのである。それが出来ないのがトヨタの辛さであり、潰れる理由となるわけだ。

 

 流行り流行りで一部に売れる車が出ては入れ替わるが、全体の市場は収縮の一途を辿っていくだろう。そのトレンドを掴むのは中小であり、巨大企業は掴みづらい。

 

 何故なら、それを掴んでも大きな利益にならないから・・・

 

 かつて、大きいことは良い事だ!と言われた時代があったが、今は小さいことが良い事なのである。これからの大きな流れは人口減少に依る市場縮小であり、大きな商売ほど厳しい状況に追い込まれる。

 

 それは、企業だけではなく国家に於いても同じである。全てはニーズの多様化であり、それは人間本来の性質であるから、その流れを止めることは出来ないし、逆らうことも許されないだろう。

 

 そして、言うまでもなく、その多様性を抑えてきたのだが、学校教育であることは言うまでもない。資本主義という巨大資本で作られる巨大産業は、皆が同じものを欲するという性質が欠かせないわけで、巨大な国家を支え、巨大な企業を作ってきたと言える。

 

 しかし、未だにそれを止めようとはしない。巨大企業が消えていく中で、そこで働く機械は要らないわけで、みんなに同じことを教える学校教育も不要なのである。

 

 そして、必要もないのに働く機械人間をたくさん作ればどうなるのか?

 

 例えば、作り過ぎた野菜はどうなるか?を見れば分るだろう。作り過ぎた商品はどうなるかを見れば分るだろう。

 

 人間社会リードするのはニーズである。誰かが欲することが存在を保証するわけで、商品も企業も国家も、そして人間そのものも同じであるということではないかと思う。

 

 学校が最もいけないのは、誰かに必要とされる人間になることを強いるからである。まあ、それによって働く機械を作る訳だから・・・

 

 しかし、我々が生まれてくるのは他人の為になる為ではない。自分の生を思う存分楽しむために生まれてくるのである。もちろん、その楽しみの一つに他人に喜ばれるということもある。だけど、それは飽くまでその一つであり全てではない。

 

 このことをキチンと教えなければいけないし、知らなければいけない。そして、自分がそう生きたいと思うことで、他人がそう生きたいと思う事を知り、自分が尊重されたいと思うのであれば、他人を尊重しないといけないと思う事が出来るのである。

 

 今回はトヨタの動向から、人間の本質にまで飛んできたのだが、何故そうなるかと言えば、全ては繋がっているからである。仕事を仕事としてだけ見ても全体は見えない。

 

 それしか見ないのは、畜生や機械であり、人間とは呼べないと私は思う。機械を作り畜生を飼育できるのは、全体が見えるからであり、それが人間の能力ではないかと私は思う。

 

 一つ一つの事は大事ではあるが、本当に大事なのは全体であると思う。常に我々は世界を見渡し自分を知り人間を知り、そして前を向いて歩いていかなければいけない。

 

 学校教育というものは、それを我々にさせない。だから、誰もが全体を見ることしないし、見ることが出来ない。そして、世界は光を失い暗くなる。

 

 それは世界が暗くなったのではなく、誰もが世界を見なくなったことで暗くなったに過ぎないのである。そして、21世紀という時代になっても戦争や殺人や争いに終始する人ばかりになっているのである。

 

 この広い世界で何故争う必要があるのか?今や、全てを有り余るほどたくさん作れ得る能力を持っているのに。しかも、みんなで死ぬほど働いて有り余るのではなく、楽に働いて有り余るのに・・・・

 

 私からしたら、この光景はバカの極みにしか見えないわけで。

 

 もっと賢くなれば、みんなが笑って生きていけるんじゃないのか?と思うのです。だから、学校教育を止めようと言い続けている。

 

 これもまた倒幕運動の一環何ですがね^^;