俺達ハマのガキ共は、2国を国道1号線なんてトロ臭い呼び方は、絶対にしなかった。海から数えて国道15号線を“1国”、これ京浜第1国道のことね。国道1号線を“2国”。もちろん京浜第2国道のことだ。有料の第3京浜国道を“第3”って呼ぶんだ。どうかすると、大森辺りの東京の奴でも“2国”のことを“国1”なんて呼ぶんだ。そんな時、後で川向こうの奴等をイモ扱いしてよく笑ったもんだ。国道は大体平行して走っていた。でも俺達には何と云っても“1国”か“2国”。特に学校の丘の下を走る“2国”だった。さすがに東海道だけあって片側3車線、両側合計6車線の堂々たる国道だった。俺達には、東横もスカ線も、国電も京急も関係なかった。ニュースも流行も全ては国道を通じてやってきたんだ。バイク雑誌で見た新型車も、ヨーロッパ車も速いサイクルで俺達の前を駆け抜けていった。横浜駅辺りから、都内は五反田辺りまでが俺達の“国道”エリアだった。もっとも俺達ハマガキはせいぜいトーヨーボウルの前位が限界だった。何故かって云うと、都内に入るとハマナンバーがだんだんと居心地悪くなってきて、反対にイモ扱いされそうで逃げ帰ってきたもんだ。県警の白バイだって県境の多摩川を越えないじゃないかなんてのが、訳の分からない理由だった。

 

日本のオートバイが世界的にその優秀性を認められ、やがて世界の二輪界を席巻し始めた素晴らしい時代だった。メーカーは自分の方向性に自信を持ち、世界の二輪界が日本の4大メーカーの動向にびくびくしていたんだ。以降の国際格式のレースでは日本のメーカーが表彰台を独占するのが当たり前、むしろ取りこぼせばそれがニュースになる位だった。でもまだまだ日本のモータリゼーションは貧しかった。キャロルやパブリカを追って、サニーやカローラがファミリーカー時代の到来を謳ったが、自家用車を持っているのは医者か土建屋の親父くらいのものだった。もちろん俺達に車が手に入る訳もなく、バイクに若く熱い視線を注いでいた。バイク屋を巡ってカタログを集め、擦り切れるほど眺めてはバイク屋に呆れられる程にスペックを覚えてしまったもんだ。日曜日に用も無いのに2国沿いに立てば、発売されたばかりのニューモデルや輸入車を見ることができた。都心から2国を通って伊豆や箱根にツーリングに行くソロライダーや、クラブライダーが結構多かった。信号待ちの最前列で並びかけ、次の信号までの“シグナルグランプリ”を挑むライダー。アクセルを煽れば勝負を受ける事だった。今思えば、あのライダー達は殆どが活きのいい親父達だったように思う。俺達はただ排気音を聞いて喜んだり、理解もできないのにセカンドの伸びがいいななんて事を話題にしては悦にいっていた。ショールームに行ったって、どうせ俺らガキは相手にしてもらえなかった。だから“2国”は俺達にとって、夢の世界への入口だったんだ。白バイに追われて逃げる猛者や、2台で罠を張る県警の白バイ。黒い皮の上下ツナギに身を包んだトライアンフのサイドカー。社旗を前輪に翻すプレスライダー。とにかくいくら見ていても飽きなかった。それが俺達ハマガキにとっての“2国劇場”だった。俺達ハマガキとモーターサイクル達との、小さな小さな“愚かな風”国道物語。