(集団ストーカーにあう、
少し前の時の話をしています。
自分の精神面の状況とかで、
未来を引き寄せたと思う話です。)
うつになり、独りで部屋に引きこもり
泣いて過ごしていた頃、
ひょんな事から、自分の中に女性の魂が入り込んでいた事に気が付いた。
右のほうから、女性の顔が半分出てきて
泣き叫んでいた。
私は、あれ?自分の意識とは別に
異常なまでに泣き叫んでいる私の肉体と、
私の身体を使って泣き叫んでいる女性の存在に気が付いたのだ。
私が気が付いたのと同時に、母はびっくりして、後退りした。
私のことを、死んでしまうと発狂し始めたのだ。
私の中から出てきた女性は、どんな形相だったのかは?、私は知らない。。。
母は幽霊が見えてしまう人。
そして、肉体が乗っ取られている状態の私を元に戻すのに思いついたのが、天理教であった。
いつだかははっきり覚えていないが、2011年の11月頃だろう。
天理教の生き神様と言われているオヤ様。
そのオヤ様の生誕祭がお正月にあり、
そこに行くようにと、言われたのである。
興味のない私に旅費を実費で出して行きなさい。と、言うのだ。
部屋の中で引きこもりをしていたい。
どこにも行きたくない。
興味もないのにお金を出すのも、行動に使うエネルギーを出すのもヤブサカであった。
「やだ!行きたくない!お金も使いたくない!」
母に反発していた。
その私に母は、
「天理教は勧誘をしない。」
「他の宗教の人も参加させてくれる。」
「旅行としての観光地でもある。」
「お母さんも若い頃に、心に迷いが起きた時が有った。そんな時に、同じ様に天理教のお祭りに連れて行って貰って、迷いが取れた時が有ったの。」
「達夫さんのおばちゃんも、日蓮宗の檀家さん。天理教もおじさんが許してくれて、お祭りに参加している。おばちゃんのところに行ってきなさい。そして、話をしてきなさい。達夫さんのおばちゃんには、お願いしてあるから。」
私には、
「YES」か?
「はい」か?
「行って来る。」
行くという答えしか、
用意されていなかった。
自分の中では、“不満”の文字しか存在しなかった。
行くしか無かった。
そして母はその日から、綿のさらしを使った、“ぞうきん”と言うものを、朝に、夕にと、暇を見つけては縫っていた。
“ぞうきん”とは、真新しい綿のさらしを正方形にし、白の糸で縫ったもので、怪我をした時はさらしに、顔を洗うときにはタオル代わりに、災害などのイザという時には、何にでも使える、お社を拭くための掃除用具である。
これを天理教のお祭りの時は、一針一針手で縫って、奉納するのだ。
母は、戦時中に出兵する我が子の為に用意する“千人針”になぞらえて、毎日毎日せっせかせっせかと、縫っていた。
「これを一針一針縫っていると、心が落ち着く」
母もまた、急死した父によって、起きたいろいろな感情を受け止めきれずに病んでいた。
正確には、家族全員が同じ状態であった。
その時家族全員が、重い足かせを持って生きていた。
父が亡くなる直前まで、狭くも感じていた家の中が、ある日突然、広すぎた家へと変わった。
それまで、各々、別々の部屋で生活していたのに、居間の部屋、一つさえあれば、
十分過ぎる程に感じる様にさえ、
なっていた。
独りで居ると自分が壊れていってしまうかの様に感じていた。
誰かと居ることで安心感を持ち、
誰かと居ることで父が居なくなってしまったことへの意識を紛らわす事が出来た。
逆に、独りになると、父が亡くなったことにひたすら意識を向け続けるのだ。
人一人の命の存在は、計り知れなく大きい。
それを知ったのが、父の死である。
何もいらない。。。
行きたいところも。
欲しい物も。
食べたいものも。ない。
消失感だけが漂う。
それが、自分にとっての大事な人を失う。
その感覚である。
部屋が小さく感じたのは、父の存在感がいかに大きかったかを物語っていた。
居るだけで、安心する。
そう言うことを、亡くなった後に
初めて知ったのだ。
当たり前が、当たり前でなくなった日。
それが、今日が山です。と言われた、
父が病院に入院している日。
「今年、何も無かったな〜。何にもしてない。思い出になる様な出来事が何にもない。」
「何にもなくて良かったじゃね〜か。」
「誰かが具合が悪くなったり、亡くなったりしてみろ。それこそ辛いぞ。」
「何も無いが一番!」
「最高の年じゃねぇ〜かぁ〜。」
何をもって幸せかを。知る。
それは、年齢を重ねて、いろいろな経験をしたからこその感想である。
何かあるのが幸せか?
何も無いのが幸せか?
どちらもその人自身が、どう捉えるか?
で、幸せかどうかは決まる。
ならば、どうあろうと、結果は
「幸せ」
その言葉の一択に収めるのが、
賢い生き方だと、今の私は思う。
泣いても笑っても、全て「幸せ」