著者による本書の読者へのコメント

 日本語には「ひと」「ことば」という便利な単語がある。ラカンの精神分析では、ひとはことばを使うようになると、それによって裂かれてしまって、そのひとを「主体」と呼びますが、これは英語で言うサブジェクトの翻訳語です。

 ここで、もうひとつ言うと、ひとはことばを覚える以前に、すでに裂かれている。これは母親の体から分離したからと言ってよいのですが、そこで、ひとはことばを使う前と後の二重に分割された主体として、みんなの世界を生きています。

 ことばは、もともと音声でしたが、日本語は、1500年以上前に、中国から伝来した体系的な文字である漢字と出会い、その後、漢字をもとに片仮名と平仮名を作りました。そこで、ことばは、もともとの音声と、三種類の体系的な文字によってできた現在の日本語として実現しています。ひとは、そのような日本語を話し、読み、書くことによって、分割された主体として生きています。

 以上の分割は、いわば国語による分割ですが、ひとは日本語にかぎらず、どこでもことばを使う以前から、母親との分離によって分割されています。そこで、こちらの分割の方がいっそう根本的だと考えられそうですが、必ずしもそうではない。ひと以外の動物たちも、母親の身体から分離されますが、動物たちがそのことに悩まされているかどうか、少なくともはっきりしたことは言えません。ことば以前の分離は、ことばを使うひとがいて、はじめて生まれる問題です。ひとが、それによって分割されるのは、たしかにことば以前のことですが、ことばを使うからといって、その分割が消えるわけではありません。それは、二重の分割の一方として、いつまでも消えませんが、やはりことばを使うことによって生まれる分割と言えます。

 分離や分割からは、双方のあいだの切れ目からすき間が生まれます。この双方の連続が途切れているすき間を、空虚と言ってもよいでしょう。ひとは、二重に分割されたひとの世界で、何とかその空虚を埋めようとして生きていますが、ラカンは、その過程を享楽と呼んでいます。そして、この享楽も、ひとの世界では、ことばを使うことで実現しようとする他はありません。「享楽」も翻訳語ですが、ここで厄介なのは、その翻訳語の意味が、日本語の「ことば」からは説明しにくいことです。日本語では、「ことば」を、音声と意味の二つに分けて、それぞれの要素を指す用語がありません。ラカンは、二つの要素をシニフィアンとシニフィエという、現代言語学の用語を借りて使っています。そのなかで、ひとがことばのシニフィアンによって空虚を埋めようとするのを、享楽と呼んでいますが、そこに大きな問題があります。ひとは、ことばを使う世界で享楽を実現しようとするとき、そのことばのシニフィアンにはシニフィエがありません。つまり、そのことばには意味がなく、指し示す対象がないということです。しかも、そのことがひとの欲望を伝えるあらゆることばの本質です。

 ひとは、二重に分割されて主体となり、享楽によってそれらの空虚を埋めようとする、そのときもことばを使わなくてはなりませんが、そこにはっきりした対象がないので、それを実現することはできません。ことばは、ふたたび空虚を生み、ひとが体験するのは、ことばから生まれる空虚です。ひとに母親の体から離された空虚が生まれるのも、やはりひとがことばを使うからであって、それを埋めようとするのも、ことばによる他はありません。

 母親の身体は、ここでものと呼んでもよいでしょう。「もの」は、文字以前からの日本語ですが、ここでは古代から現代までの、おもに哲学で語られた西欧語からの翻訳語です。ものは精神分析で、「母というもの」とか「ものとしての母」とか言われますが、それは何か個別の対象を指しているのではありません。ことばについて、そのシニフィアンが、ことばのそとにある現実的なものと全体的に一致したときに現われてくる何かです。全体的な何かは他のものと区別することもできないので、ことばは、それを指すことができません。ことばには、そのように、ものと完全に一致して享楽を実現することは禁止されていると言えます。

 そこで、ことばを使って裂かれた主体が、ことばによって切れ目を塞ごうとしても、ことばを覚える前の分離はそのまま残ります。フロイトが「死の欲動」と呼んだのは、その分離をのり越え、ものと一つになって享楽を実現しようとする心的エネルギーのことだと思います。もちろん、ひと以外の動物たちに、こんな欲動があるとは思えません。しかし、ひとについても、たんにひとの生物としての身体を消滅させようとする動きではなく、ものとしての母親の身体と、ひとの身体とが向き合って、そこで起こる特徴的な現象です。

 ここで、「身体」という単語について見ますと、それは「からだ」と訓読みされた昔からの日本語ですが、精神分析では、やはりラテン語(corpus)からの流れを汲み、形のある物体としての人体のことで、

ラカンは、「身体とは、つねに個々の語る身体です」と言っています。これは、たんなる物体とは矛盾しているようですが、それは身体が、いつも個々に形のある姿として心に描かれるのを強調しているようです。そうなると、母親の身体という言い方は矛盾しているようで、それはある姿をした個々の身体ではありません。しかし、そこにものとしての母親の身体と個々の語る身体とのはっきりした違いがあります。そして、ひとはそれぞれに語る身体として、ものとしての母親の身体と一つになることはできないのです。

 こうして、語る身体そのものが享楽のしくじりを告げていますが、それでも、ひとは、ことば以前の分離をのり越えようとして、ことばで語るのをやめません。語る身体が体系的な文字に出会うと、やがて文字を書き、それが残ることになります。しかし、語る身体が書くことばには、対象のないものの空虚をけっして埋められない一面があります。例えば、あるひとが自分の精神状態を意識しながら、いわゆる自己分析としての書いたとしても、ことば以前の分離を遠ざけることはできません。精神分析は、そこに死の欲動と享楽の関係を探って、語る身体の享楽と文字を書くことの乖離を認めます。身体には、ちょうど小泉八雲の「耳なし芳一」が語っているように、どうしても享楽が書き込めない空虚があり、これに対処する方法は、それでも空虚を抱えたまま語り続けるか、それとも死ぬか、どちらかです。

精神分析家が、三島由紀夫をあとの例としてあげるのは不思議ではありません。どれほど身体を鍛え、身体について語っても、享楽を阻む空虚はびくともしませんでした。一昨年、東京で開かれた三島の

国際シンポジウムでは、フランスの精神分析家が、三島とジョイスを比べて語っていましたが、これは分かりやすい例です。二人の作品については、文学のことばにかかわるそれぞれの歴史的な背景があって、軽々には語れないでしょうが、死の欲動と享楽については、対照的な例を示してくれるようです。

 ジョイスは、自分が書いたものに謎をいっぱい詰めたから、それが解かれるまで、二百年は生きのびるだろうと言ったそうです。つまり、自分は死んでも、自分は死なない、名が残るだろうというわけです。この自己像が、彼を自然死に至るまで生きのびさせました。それは、彼の文学的自我あるいはエゴと言ってもよいでしょう。しかし、三島の場合は、享楽によって身体のなかに書き込めなかった空虚が、そのエゴを押し退けたのです。

 謎は、書かれたものに空虚な部分を残します。文字は、もともと謎を含んだ見かけですが、ひとは書くという仕草によってその空虚を埋めようとします。しかし、ひとが文字を読もうとするかぎり、謎は消えません。というのも、空虚にはとどのつまり意味がなく、ことばのそとにあって、そこに現実的なものの場所があるからです。日本では、文字は、中国語という音韻も文法もまったく違う国語から作られた文字、漢字によって、まさに見かけとして登場しました。漢字は、すでに完成された体系的な文字として伝えられましたが、日本語は、その文字に音読みと訓読みの二通りの方法によって対処しました。むろん、それによってひとが体験する空虚が消えたわけではありません。

 ラカンは、「リチュラテール」の最後に、日本語について「(それ以来、日本語で文字を書く苦行は、)どうしても、『それは書かれている』に行き着かざるをえない」と書きました。つまり、日本では、漢字がまさしく見かけとして与えられ、その意味がいかに多義性のなかに拡散しようとも、ひとは、享楽をことばのそとで実現することはできない。すでに書かれている文字の多義性を享受しながらも、それによって現実的なものに近づく危険を避けるために、ひとはあらゆる社会的活動の分野で形式化された価値に向かうのである。しかし、それもまた見かけの仕草であって、三島が対決したのは、文字によって穿たれた空虚とともに、それにも劣らず「日本」に蔓延した、空虚な見かけの社会的仕草であったと思われます。彼は、死の四か月前、戦後まもなく始めた創作活動の25年間をこうふり返っています、「私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど『生きた』とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」。

 日本語では、大陸から伝来した文字が多義性のなかに紛れこみ、ことばは、いちども究極の意味に向かうことはなかった。

 しかし、一方では、ことばのつながりから生まれる意味を離れて、ことばを読み、書くことによって、いっきょに現実的なものの空虚を名指そうとする仕草もある。ロラン・バルトは、俳句のことば使いに感嘆したのが、良い例である。俳句は、そのような仕草によって享楽の手前にとどまり、ことばによって裂かれたひとの世界を生きていこうとする試みだろう

                 佐々木孝次


 

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トークイベント

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「土地と音、風景と語り」
姜信子×仲野麻紀 トークショー

旅を軸に出会う、土地から生まれる音響、旋律、語り、自然と人。
本の中に登場する生活の中で継がれてきたものみなの息。
水のある場所、音のある場所。この世にある多様性、一人の中の多様性。
様々な土地で、語りに寄り添い耳を傾ける旅の話。

出演:姜信子(作家)/ 仲野麻紀(サックス奏者)

[日時]2017年10月20日(金)19:00〜(18:30開場)

[参加費]2,000円(当日精算)ワンドリンク付き

[予約制]メール(info@espacebiblio.superstudio.co.jp
または電話(Tel.03-6821-5703)にて受付。

●メール受付:件名「10/20 姜氏+仲野氏トーク希望」にて
お名前・電話番号・参加人数をお知らせ下さい。
おって返信メールで予約完了をお知らせいたします。

●電話受付:03-6821-5703(火→土11:30→20:00)

[会 場]ESPACE BIBLIO(エスパス・ビブリオ)
地図→http://espacebiblio.superstudio.co.jp/?page_id=2
〒101-0062
東京都千代田区神田駿河台1-7-10YK駿河台ビルB1F
電話:03-6821-5703

主催:openmusic
協力:せりか書房/エスパスビブリオ

 

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11日配本決定

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妖怪文化叢書シリーズ

『進化する妖怪文化研究』

小松和彦編 A5判並製 504頁 本体5800

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10月11日配本決定いたしました。

 

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