2月の新刊

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『冒険と探検の近代日本――物語・メディア・再生産

鈴木康史編著

目次

第一部 近代化する日本と中国の冒険と探索

第一章 明治日本への「冒険」の導入

第二章 1893年の「探検熱」と壮士たちの「殖民熱」

第三章 学術探検と大陸浪人

第四章 『少年世界』が媒介する「冒険・探検」

第五章 遺族にとっての「冒険」と「物語」

第六章 もう一つの冒険・探検

第二部 現代日本社会における冒険と探検

第七章 堀江謙一インタビュー「太平洋ひとりぼっち」とは何だったのか

第八章 『サイクル野郎』に見る1970年代の自転車日本一周の意味と価値

第九章 「川口浩探検隊シリーズ」と「真正性」の変容

第十章 「人跡未踏の地」なき時代の冒険

 

2月初旬刊行です。

価格等は後日!

よろしくお願いいたします。

 

 

 

太田省一先生に聞く②

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3)『テレビ社会ニッポン 自作自演と視聴者』というタイトルですが、キイワードとなるサブタイトルの「自作自演と視聴者」の意味を手短に説明して下さい。

 

「自作自演」とは、「自分でやったことなのに素知らぬふりをする」ことです。テレビには、番組ジャンルに関係なく、そのような“習性”があると考えます。

この概念は、かつて長谷正人さんとの共編著で出た1970年代テレビ論集『テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代』(青弓社)ですでに鍵となる概念だったもので私のオリジナルというわけではありませんが、本書ではそれを日本のテレビ史全体を通して位置づけることを試みました。

 その自作自演と対になるのが視聴者で、本書の意図としては特に視聴者のほうに比重があります。テレビの自作自演を許しつつ自由を享受し、また守ろうとした視聴者の歴史を浮かび上がらせようとしたのが本書です。それは1)でお答えしたように、そもそもの動機が“テレビ好きな私”という視聴者の視点から出発しているからでもあります。

 

4)なぜ戦後のテレビが視聴者を招き、視聴者自らが参加するという視聴者との暗黙の「共犯関係」がテレビ社会ニッポンを誕生させたとお考えですか。

 

 先ほど2)のところで書いたことに重なりますが、テレビとの「共犯関係」を維持することが、視聴者がテレビとの関係において得た「自由」を維持するうえで必要かつ有効だったからです。その「共犯」のかたちは常に同じではなく、番組、社会、テクノロジーの変化などによっていろいろと移り変わりました。その詳細については本書で読んでいただければと思いますが、ひとつだけ挙げるとすれば、テレビにツッコむという行為は、テレビの自作自演を許容するもの、テレビを延命させる共犯的行為としてわかりやすいのではないかと思います。

 

5)日本テレビ「世界の果てまでイッテQ!」がやらせ問題で叩かれました。4)の質問との関連で説明していただけませんか。

 

 テレビが元来自作自演的なものだと考えるなら、演出とやらせを区別する絶対的な基準は存在しないことになります。それでもニュースやドキュメンタリーなど公共性や客観性を要求されるものであれば、過去の同類の問題が示すようにやらせかどうかは重大な問題になるでしょう。ところが今回のようなバラエティの場合には、視聴者にも自作自演的であって当然というような感覚があり、実際「かなりの演出があるのはわかったうえで楽しんでいる」というような意見がSNSなどでも見受けられました。もちろんそれ自体本書のとらえかたで言えば「共犯関係」のひとつのかたちなのですが、大切なのはテレビの自作自演性を私たちが今後どう扱うかということであって、「アウト」か「セーフ」かということではないように思います。

 

6)現在、インターネットの普及によって「テレビ離れ」が叫ばれていますが、今後の「ポストテレビ社会」の行方は?

 

 まず現実的に、YouTubeなどを始めとしたインターネットの動画文化が存在感を増していく流れはこれからも続くだろうと思います。ただだからと言って、テレビ自体が衰退するかというと、簡単には断言できないような気がします。本書のなかでも書きましたが、たとえばテレビがネットの極私的視点を取り込んで、これまで見たことのないような番組をつくることもあるでしょう。かつてのような“毎日がお祭り騒ぎ”のような状況をテレビに求めることはなくなっていくでしょうが、「テレビからネットへ」というような単線的な変化にはならないと思います。具体的にはまだわかりませんが、テレビとネットのあいだの往復運動のなかで視聴者が求める「ポストテレビ社会」のかたちが徐々に見えてくるのではないでしょうか。

 

『テレビ社会ニッポン 自作自演と視聴者』 太田省一

ISBN978-4-7967-0378-9 C1036 本体価格2400円

好評発売中です!!

 

 

 

 

太田省一先生に聞く①

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『テレビ社会ニッポン 自作自演と視聴者

著者 太田省一先生に聞く①

 

 

1)今まで『マツコの何が“デラックス”か?』『SMAPと平成ニッポン』など数多くのテレビをめぐる本をお書きになっていますが、今度の本は、とても大きなテーマです。お書きになった動機を教えていただけますか。

 

 確かに話としては大きいですが、根本にあるのはむしろとても個人的な動機です。本書の「あとがき」にも書いたのですが、周囲の人たちからは「テレビ好き」であることをよく言われてきました。「一番テレビを見ている社会学者」という、ありがたいのかどうかよくわからない“称号”をもらったこともあります。

 実は、そのように言われ始めるまでは自覚がありませんでした。よくあることでしょうが、それが当たり前だと思っていたのです。しかし、「テレビ好きですねー」「なんでそんなにテレビを見てるんですか?」などと言われ続けると、当たり前が当たり前ではないような気がしてきました。「当たり前を疑う」ことは社会学の基本であったりもするわけで、そうして“テレビ好きな私”は私にとって社会学的な考察の対象になりました。

その「私」は1960年、まさに高度経済成長期の真只中に生まれました。そしてそれはいうまでもなく、日本社会へのテレビの普及期にも当たります。したがって、“テレビ好きな私”の成り立ちを知るためには、戦後日本社会とテレビの関係がポイントになります。その関係を明らかにする学問的アプローチはほかにもあるでしょう。しかし、本書の場合は、「私」という存在を戦後日本社会とテレビの関係のなかに挿入したときになにが見えてくるか、という点を最も重要なモチーフとして記述しました。

 

2)占領軍アメリカのGHQによる戦後民主主義がもたらした「自由と平等」がテレビによって実現したと書かれていますが、この本の核心となるテーマと考えて宜しいでしょうか。

 

 基本的にはおっしゃる通りです。ただ“戦後民主主義がもたらした「自由と平等」”というとすごく大げさに聞こえるかもしれません。「テレビを見ることは自由になることだ」というのが本書の結論的な部分にもなりますが、それは身分や地位などそのひとの属性に関わりなく、テレビが私たちを解放してくれる側面があったということ、そしてそこで得られる興奮や感動が私たちの人生におけるある種の充実した場面を形づくる側面があったということです。それ以上の意味でもそれ以下の意味でもありません。

 

②に続く