ストックホルム症候群とは犯罪心理学で使われる有名な言葉でありまして、誘拐事件や監禁事件などの被害者が犯人と長い時間を共に過ごすことにより、犯人に過度の連帯感や好意的な感情を抱く現象を言います。
その言葉の由来ですが、1973年8月、北欧スウェーデンの首都ストックホルムにおいて発生した銀行強盗人質立てこもり事件において、人質解放後の捜査で、犯人が寝ている間に「人質が」警察に対し銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取り、また解放後も人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったとされる出来事です。
人質が犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、人質が犯人に対し過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱く心理現象のひとつです。
被害者が銀行強盗の犯人によって拘束されている間に犯人からその身の上話を聞き、なぜこの犯行を及ぶに至ったか、その背景や事情を知ることになります。
それに同情した被害者は「この人(犯人)は本当は悪い人ではないのかも知れない」と考えるようになり、いかに社会が歪んでいるかを考え「警察からこの人たちを守ってあげなければならない」とまでその被害者の心理は動きます。
犯人たちが寝ている間に被害者たちは代わりに銃を持ち警察の動きを見張り、事件が収まった後も警察や裁判にて被害者たちは犯人をかばう発言をし、中にはその後犯人と結婚した被害者までいました。
私たち人間は臨場感を共有することにより人と人のつながりを強くするという習性があります。
日本的な言葉で言えば「同じ釜の飯を食べた仲間」というものでしょうか。苦楽を共にしてその時間と空間を共有してきた者同士は精神的つながりを強くすることがあります。
心理学用語ではハイパーラポール現象と言われますが、友人、職場仲間、夫婦など、辛く苦しく困難な時間とその空間を共に歩み過ごして来た関係は何にも代え難い強い絆で結ばれるものであり、そこに情が生まれ相手との関係性を強めることがあります。
勿論これは良い意味で働く場合は問題はないのですが、その逆に悪い意味で働く場合があります。
前述のストックホルムで起きた銀行強盗の犯人とその被害者の話だけではなく、私たちの日常にもその現象は起こりえます。
DV(Domestic Violence)と言われる家庭内暴力などがその一例で、アルコール中毒などになり妻は夫に暴力を振われながらも、時に「痛かったよね、ごめんね、ごめんね、」と優しく泣きながらすがってくる顔を見せる弱い夫を見て、そして夫の生い立ちやこれまでの境遇を思いながら、妻は夫を放っておけない。
「この人だって辛いのよ」
「この人は本当は悪い人ではない」
妻はそう言い聞かせながら夫をかばい地獄の生活を続ける。
その頃には「それとこれとは別」という事象の切り分けが出来なくなっている場合が多いように思います。
男女のカップル二人でラブロマンスの恋愛映画を見るよりも、二人で手をつなぎながら怖いホラー映画を見るほうが二人の関係は近くなると言われます。恐怖体験という同じ体験をした二人の間にその空間を共有したというハイパーラポール現象により二人のつながりを強くするものがあるのかも知れません。
これらの話を受けて私たち人間は何を考えるでしょうか。
1973年にストックホルムで起きた銀行強盗人質立てこもり事件において、犯罪は犯罪です。
DVについて、家庭内暴力は暴力であり、それは言葉の暴力とて同じです。
それらは決して許されることではなく、たとえどのような事情があったっとしてもそれに変わりはありません。
ですが私たちはそのような行為に至った人間の、その事情のあわれむべき点をくんで罪を軽くして欲しいと望み、場合によってはすべてが許されるべきとしてしまうことさえあります。
またそのような優しい人間心理を逆手に取って悪用しようとする者もいます。
「この人にも良いところがある」
「この人にも優しいところがある」
それは多くの人間がそういう善の一面を持っており、極悪人とされる者でさえそのような一面があります。
そしてその心理を利用して誠実な人間を騙す者さえ存在します。
「是々非々」
「それはそれでこれはこれ」
感情やその立場にとらわれず、良いことは良い、悪いことは悪いと切り分けて判断する必要性について、それが出来なければこの俗世ではあっという間に搾取され我が身を滅ぼしてしまいます。
間違った優しさは自分だけでなく相手をも不幸にしてしまうということを私たちは知る必要があるのではないでしょうか。
ストックホルム症候群は過去にスェーデンにて起こった特異の事象ではなく、私たちの日常にて同種の事象は頻繁に起こっているということを改めて認識する必要性を感じさせられます。
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