西洋の童話イソップ物語にうさぎと亀の話があります。
油断するうさぎとコツコツと努力して地道に歩み最後に勝利するという誰もが知る有名な話です。
そしてまた日本の童謡にはこのような有名な歌詞があります。
「もしもし かめよ かめさんよ、せかいのうちに おまえほど、あゆみの のろい ものはない、どうして そんなに のろいのか」
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私たちはこれが劣等感に苛まれた人間の心理の表れだということに気づくことが出来るでしょうか。
「そもそも何故うさぎと亀を競わせるのか」
「何故元々性質の違ううさぎと亀を比較し、更にうさぎは亀を見下し優越感に浸るのか」
「この話を履き違えて理解している私たち人間は何故それをおかしいと思わないのか」
人は他者を見下すことで自己の優越感に浸り安心します。多くの者がそれが自己の劣等感から来るものだと気づくことはありません。
これは「自由」という概念における西洋的思想と東洋的思想の違いにおいても同じことが言えます。
「不自由であることの自由」
これが東洋的思想における自由と言われます。
例えば齢五十歳を超え右肩が痛くて上がらなくなった。いわゆる誰もが経験する五十肩というものがあります。
現在人はこれを治そうとして注射をしたり整形外科に通い治療をして動くようにしようとします。しかしながらある意味それは自然に逆らうことであり肩は動かないという不自由な状態が自然であり、動かさないという自由があるという考えもあります。
足を痛めてしまい動かない、それにも関わらずその不便な状態で体を労り出来る範囲でのことに制限する自由を認めず、痛み止めを打ってまで足を無理やり動かし肉体を酷使し働かせる、それは決して自由ではなくそれはまさに不自由であります。
東洋的思想とはまさに自然の流れに逆らわず自然に溶け込む自然との一体化にあります。
過去の偉人、鈴木大拙氏はそれらを「松は松、竹は竹、杉は杉であり、それらはそれらそのものであることが自由である」としました。
そして尾崎豊はその曲「卒業」の歌詞の中で「仕組まれた自由に誰も気づかず」としました。
東洋的思想とは自然との一体化であり、不自由を自由とするものでもあります。
うさぎが亀に「どうしてそんなにのろいのか」と言うセリフ、これがいかにこれらに反するものであるか。
そもそも比較すべきものでないものを無理やり同じ土俵に上げて、比べ、見下すという劣等感に基づく愚かな行為であるか。
それを汚れのない子どもに歌わせるという、いかに現代が歪んだ社会であることか。
私たちはこれらについて今一度立ち止まり考える必要があるのではないでしょうか。
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