通常、手出しせず放置すると聞くと無責任であったりそれは消極性であるという解釈がなされます。

 

もちろんそのような解釈が正しい場合が多いのですがそれらが時に積極性であるということを私たち人間が理解することは大変難しいものです。

 

 

わが子可愛さに世話を焼きすぎる親

 

何でも自分でしなければ気がすまない神経症の人間

 

不安だからと休日も心安らぐことなく仕事を続ける

 

 

我が子の自立と成長を促すため子が失敗から学ぶことを手出しせず放置し見守ること

 

部下の気づきと成長を願い手出しせず彼らを信じ任せること

 

仕事と余暇のオンオフを切り替え効率性を高め今すべきことに注力集中すること

 

 

これらは無責任と消極性による放置ではなくいずれも積極性によるものとなり、それには自己の精神、メンタルコントロールが必要となります。

 

ですが私たちは苦しむ我が子を目の前にし、そして部下の失敗から業務に支障をきたす場面を目の当たりにし耐えられす手出しして彼らが失敗から学び成長する機会を奪ってしまいます。

 

それらを「〜のため」とし積極性であると正当化し私たちは感情優位による自分可愛さから苛立ちを覚え手出ししてしまいます。

 

それらは実は自己本位に基づく消極性であり相手の主体性を奪う行為であることに気づく者は少ない。

 

逆に放置し見守ることは消極性ではなく、主体性を相手に持たせるという積極性であること。これを私たちは認識する必要があるのだと私は考えています。

 

当然ではありますが無責任に放置し保護を怠る未熟な親や指導監督者はこの世に数多く存在します。そして「見守ること」と「放置すること」は厳密にはその意味合いは異なります。

 

 

保護が足らずでは無責任となり保護が行き過ぎれば過保護となります。

 

 

手出ししないというのは時にそれは積極性であるということについて

 

これを正しく理解し実践するには保護と過保護の見極め、そして何よりもそれには私たちの愛と精神性が問われるものでもあると思わされます。

 

 

 

 

・・・