私たちの過ごす世界には言語というものがあります。

 

気持ちや想いはそれだけでは伝わらないことが多く、それを相手に伝えるためにはそれらを言語化する必要があります。

 

 

「言わなくても分かって欲しい」

 

「言われなくてもそれくらい分かれ」

 

 

日常にてそのように思う人々も多いと思います。

 

 

しかしながら私たち人間界ではそれら多くの場合相手にとって分かりません。

 

言葉で伝えなければ相手には伝わりません。

 

いえ、むしろ言葉で伝えても分からないことの方が多いです。

 

 

もちろん相手の気持ちを思いやる事のできるある程度人格の高い人であれば言葉なく分かることも多いでしょう。

 

しかしながらこの世にそのような人間がどれくらいいるでしょうか。

 

 

「あれ?あの人、寒そうにしているな。オフィスのエアコンの温度を少し上げてあげようかな」

 

そのように考えながら周りを見ていても全員知らん顔。

 

気づきさえしない。

 

 

周りを気遣って一声かけることを話しても、

 

「それなら本人が一枚服を羽織ればよいではないか。なぜ自分がそんな他者の気遣いをしなければならないのか。自分が責められる覚えはない」

 

となる。

 

 

周りの人間の気持ちを察して気遣うなどということは遥か雲の上の世界の話。

 

それでも言語化して話すことからでないと何事も始まらない。

 

 

 

「感覚では分かるが言葉で表現することは難しい」

 

そのように言われることは多いです。

 

 

それでもやはり言語化して話すことからでないと何事も始まりません。

 

 

私たちが過ごす人間界においての教育は何を置いても物事の言語化に始まります。

 

 

「なるほど、そうだったのか」

 

 

気づきは自身の経験や痛みによるものだけでなく、耳から入る言語においてもたらされることが多いです。

 

今まで理由が分からず苦しんでいた者が他者の話を聞くことで気づき、その言葉によって理解し目の前が光で照らされることがあります。

 

言葉によって人は地獄に突き落とされ、また逆に言葉によって人は地獄の底からすくい上げられ救けられることがあります。

 

 

言語には様々な側面があります。

 

言葉は使い方次第で人を殺してしまうことがあり逆に言葉は人を生かしその人生を明るいものに変える力があります。

 

 

「言わなくても分かって欲しい」は多くの場合相手には伝わりません。

 

 

感情、気持ち、善悪、罪、愛、思いやり、感謝、道理

 

これらを言語化するにはその能力だけでなくその使い方、技量が必要となります。

 

先天的能力に差はあれど言語能力とその技量は訓練とその努力により向上します。

 

 

二流三流の教育者は簡単なことを難しく長く話し、一流の教育者は難しいことを簡単に短く話し、更に一流の教育者はその対象のレベルや理解度に合わせ話す内容のレベルを話しながらその最中に適切に変えていきます。

 

 

言語化能力と技量

 

私たちが過ごすこの世界においての教育は物事の言語化なくしては何も始まりません。

 

 

 

 

 

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