私たちは「正しい」「間違っている」という認識により争いを起こし負の感情に囚われるわけですが、これらは「誰にとって正しいのか、間違いなのか」の「誰にとって」の部分の抽象概念を上げることによって解決されるように思います。
抽象概念を上げるというのは「共通項で包摂してまとめていくこと」を意味しますが、例えば会社の方針ひとつにとってみても下記のように抽象概念を上げていくことが出来ます。
経営者のために
↓
経営者一族のために
↓
従業員のために
↓
従業員とその家族のために
↓
地域社会のために
↓
国民のために
↓
世界の人々のために
↓
地球環境を守るために
このように抽象概念を上げるというのはその対象を共通項で包摂してまとめていくことを意味します。
例えば下位概念の「経営者のために」となれば「社長や経営者一族さえ潤えば良い」となりますから、従業員から労働力を搾取し富を経営者一族で独占しその富の分配を会社全体では行わないことにもなります。
ですが、その抽象概念を少し上げて「従業員とその家族のために」とすればその経営方針などの「正誤」判断基準が変わってきます。
更に「国民のため」「世界のため」「地球環境を守るため」と抽象概念が上位になればなるほど多くの存在にとっての「正誤」「善悪」となりますからそこにその判断の相違は生まれなくなり、多くの者にとっての共通の「正誤」「善悪」となります。
究極の上位概念となりましたら宇宙全体にとっての「正誤」「善悪」となるのでしょうが、その宇宙とは一元ともされ、無限の潜在する可能性である聖なる闇ともされ、また大乗仏教では空(くう)と定義されたりしているものになるのでしょう。
この最上位概念を「トップ」とし最下位の概念を「ボトム」とする場合、そのボトム(底)は細かく分離されたものとなりイコールの関係で結べないような矛盾が生じることとなりそこから争いが起こります。
生命体「トップ(最上位)」
宇宙人
↓
シリウス人
↓
地球人
↓
西洋人
↓
アメリカ人
↓
イギリス系アメリカ人
↓
アフリカ系アメリカ人
↓
白人、黒人「ボトム(底)」
・・・
ボトム(底)の階層になり細かく分離すればするほどノットイコールとなり共通概念で括ることはできません。
そこに複数の正誤、複数の善悪が生じ、争いが起こることとなります。
では私たちは何を目指すべきでしょうか。
共存共栄のために私たちはどうすれば良いのでしょうか。
それは私たち共通の概念を出来るだけ上位に上げてすべての者にとって共通する善悪を正しい善悪の認識とすることではないでしょうか。
それが出来ずに「われにとって」とするために複数の善悪や独占と支配が生じ、争いと負の感情が起こるわけでありまして、「私たちすべての者にとって」という共通の概念での認識をもつことが必要不可欠になるのだと思います。
非常にシンプルで当たり前のことではありますが、「あなた=私」という友愛(絶対無差別の愛)が宇宙の平和と共存共栄への道には欠かせないものなのだとつくづく思わされます。
「われにとって良い」
ではなく、
「生命や物質を含む私たちすべての被創造物やその源である宇宙にとって良い」
抽象概念を最上位に上げそれを共通の「善」とすることができればどれだけ私たちそれぞれの世界は変わるでしょうか。
簡単なことではないでしょうが。
それを思わされずにはいられません。
・・・