私が私でないものになることによってしか続かない人間関係は壊れた方が幸せだと言われます。
「私が私でないことによって維持される人間関係」は私と相手の人間関係ではなく、既にその関係性は失われているか、又はそもそも互いは存在などしていないとも言われます。
早稲田大学 社会学教授の加藤氏によると、これは初めから「ない」という状態であり、同時に「愛がない」という状態でもあるとされます。
実際にそんな環境に生まれ育ち社会生活を送る境遇の方々も多くいらっしゃると思います。
そんな人たちは我が身を守るためにどうすれば良いか分からず、ただ怯え、相手に合わせ、いわゆる「迎合」をして生きていくしか手立てがありません。
人は自分を守るために他人の虚栄心や自己中心的な心を満たすための奴隷となります。
ただひたすら相手の自慢話や愚痴に耳を傾ける。
それをしなければ相手は不機嫌になる。
夫に依存する妻、子供
給与所得に縛られる会社員
相手に依存して生きる私たちはそれらに縛られ相手に合わせる迎合を強いられます。
そんな私たちは気づけば我が身の保身から相手の顔色を見て相手の欲する行動をするようになり、それと同時に怒りと憎しみを無意識に蓄積させていき、そしてその怒りは誰に対する怒り憎しみではなく、世の中に対し、人生に対し、全てに対しての怒りと憎しみとなります。
それを何かに発散させられればまだ良いのですが、しかしながら愛情に飢えた人間はそれを爆発させることが出来ず無意識にその怒りと憎しみを内にしまい込みやがて自分自身を崩壊させてしまいます。
このようなタイプは自己反省型の人間が多く、指摘されると「自分が悪かったのだ」と自分を責めてしまいます。
そういった人々は他者否定タイプの人間による攻撃対象となり、格好の餌食となり、他者否定タイプの人間は相手を責め非難し続け、相手が反省する素振りを見せても尚も手を緩めず相手を責め続けます。
そのような他者否定タイプの人間はタチが悪く、対象にしつこくつきまとい、離れようとせず、むしろ執着してしがみついてきます。離れようとしようものなら一層激しく責め立ててきます。
自分の心を満たすために相手を責め自分に依存させ逃がそうとしない。
自己反省型の人間はそのような他者否定タイプの人間を引き寄せてしまい、結果、地獄の人間関係に巻き込まれていきます。
「私が私でないことによって維持される人間関係」
これは何も特別なことではなく、私たち俗世に生きる人間のほとんどがそのような人間関係でその人生を送っているのではないでしょうか。
皆が偽りの自分でなく本当の自分で生きれば世の中どうなるでしょうか。
皆が皆、自分と同じ精神性を兼ね備え価値観も同じとは限りません。
そんな中で共存共栄していくには精神性の高さが必要不可欠となります。
弱肉強食の理性のない本能の世界では食うか食われるかの力勝負の世界になるわけですから。
私が私でないことによって維持される人間関係、それは私たち俗世に生きる人間にとっては現実ではありますが、それでも「私は私でいたい」、そんな想いを大切にしたいと思っています。
「私が私でいる」ということは決して我を出すことではないと考えますが、それには自然体でいながらも善悪の認識を高い視点で共有し他を尊重し合える高い精神性の上に成り立ち、更にそれは成熟した社会基盤という土台の上にのみ成り立つものだと思わされます。
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