「いってらっしゃい」
「お帰りなさい」
この言葉を何十年聞いていないだろう。
「有難う」
「ごめんなさい」
それが言えない大人など10人に1人くらいだろうと、社会に出る前の若い頃の私はそう考えていた。
しかしそれは違った。
逆だった。それが言える人間が10人に1人くらいしかいない。
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会社での社員教育は次のようなことから始まる。
「相手の目を見て話すこと」
「有難う」
「ごめんなさい」
それを言うこと。
それから始まる。
大学出の新卒の若者に対してではない。中途採用の30代40代の大人に対する社員教育の話だ。
しかもそれを教育しようとすると彼らは不機嫌になる。
その「有難う」「ごめんなさい」なのだが
なぜ10人中9人が言わないか。
その理由
「有り難いと思っておらず当たり前と思っている」
だから「有難う」と言わない。
「自分が悪いとは思っていない」
だから「ごめんなさい」と言わない。
それが見て取れる。
そんな世界が目の前に広がる。
今の時代は相手を思いやる気持ちや命の大切さ、知的好奇心などを自ら育むことを目的とした情操教育が軽視されている。
「人はいかに生きるべきか」という本来の意味での教育は江戸時代の寺子屋以降姿を消してしまったのかもしれない。
それら昔の教育を取り戻そうとすると現代ではパワーハラスメントやモラルハラスメントとされ教育者自身が国家により法的に罰せられてしまう。
そもそもこれらは親による家庭教育が主となるはずだが、その肝心の親の多くが肉体だけ成長した5歳児の大人が多いとされる実情である。
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「有難う」
「ごめんなさい」
私の周りではようやく少しずつそれが言えるようにはなってきてはいるが。
残されたこの余生、それらを自然に言える何人の人間に私は逢えるだろう。
この世がこのような事になっている原因は分からないでもない。
問題はそれをいかにすべきでどこから手を入れるべきかなのだが。
いずれにしても複数の要因が重なりこの世の今の有り様となっていることが伺えるため多方面からの同時進行で進めなければ到底間に合わない。そしてそのような中でも手をつける順番というものがあるのだろう。
私の考える「普通」は周りの人間にとっての普通ではないとよく言われる。
それならそれで良いがそういう意味で自分が孤立することは一向に構わない。
孤立はしても私は孤独ではないと考えている。
孤独と孤立は違う。
「孤独」とは寂しいというような主観的な「感情」であるが、一方の「孤立」は客観的に見て他者とのつながりが少ない「状態」を指す。
孤立する者が必ずしもイコール寂しい者ではない。
私の見る世界はある意味では自分にとっての異世界であるかもしれない。
しかしながらたとえ孤立しても孤高に誇り高く生き抜きたい。
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