私が社会人になって間もない頃、自宅最寄りの駅で会社に向かうために電車を待っていた。
快速電車を待っていた私はホームに座りながら1本前の各駅停車の電車が出発しようとする姿を眺めていた。
そのドアが閉まろうとしたその時、中年らしき女性がホームに駆け込み走って来たが時既に遅し、あと数メートルという女性の目の前でドアは閉まり電車は動き出した。
女性は動き出した電車の車掌に対し、
「ちょっとくらい待ってくれたっていいじゃない!」
「この前、隣の駅では車掌さんは待ってくれてドアを開けてくれたわよ!」
女性は息を切らしながらそのように車掌に対して大声で叫んだ。
そんな女性に対し車掌は毅然とこのように言った。
「電車は待たせて乗るものではありません。電車は待って乗るものです。」
そう言った車掌に対し女性は納得がいかないという表情をしたが無情にも電車の扉は開くことなく発車した。
この話、皆様はどう考えるだろうか。
車掌が言った言葉はド正論である。
この女性のために何百人もの乗客に迷惑がかかるのだ。もしかしたら電車に遅れが発生しダイヤが乱れて他の電車にも影響が出れば数千人から万人単位で影響が出るかもしれない。
電車は待たせて乗るものではなく、電車は待って乗るものだという車掌が女性に言い放った言葉は正しい。
公共の乗り物で「私のためにあなたたち皆が我慢して待ちなさい」という身勝手で傲慢な主張が通るはずもない。
論理的に反論できる者は少ないだろう。
しかし、事はそんなに簡単だろうか。
もしホームに駆け込んできた人が中年の女性ではなく、私学に通う小学低学年の幼い女の子だったら?
杖をついてよたよたと歩くお婆さんだったら?
お腹の大きい妊婦だったら?
身体に障害を持った車椅子の方だったら?
それら方々が必死にドアの前まで辿り着いたにも関わらず目の前で「電車は待たせて乗るものではなく電車は待って乗るものだ」と言わんばかりに車掌は無情にドアを閉めるだろうか。
あなたが車掌ならその5秒、10秒をどう考え、どう行動するだろうか。
あなたが他の乗客なら、そんな状況でドアを閉めた車掌に対してどう思うだろうか。
あなたなりに「正しい」と結論を下したその対応は最初の中年女性に対しても同じ対応であり対象の人による対応の違いなどはないだろうか。もしあるとすればその対応の違いに皆が納得できる正当性はあるだろうか。
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これは都会の話ではない。
30分に一本しか電車が来ない田舎の路線での話である。
待つも親切、待たぬも親切。
正論は正論。
どちらが正義だろうか。
そこに一つの答えというものが存在するだろうか。
立場や状況によって正義が変わるなら、正義とはなんだろうか。
正しいとは?
複数の立場の人間が集まる中で「正しい」とは何を持って正しいとするのだろうか。
私たちの視点や思考は一方向に偏ることがある。更にそこに感情が入ると尚更のことであり、その偏りに私たち自身で気づき客観的かつ多角的視点から物事を見ることは難しい。
これらの問題について簡単に答えは出ないが、まずはこれについて考えることから始めることが意味のあることであり、現代の私たち人間にとって必要なことだと私は思う。
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