私がこれまでに出逢った尊敬する先生は何人かいるが、中でも高校一年の時に担任でもあり英語担当でもあった女性の先生が強く印象に残っている。
容姿端麗で背が高く美しく、未熟な学生の私でもその内面の美しさや母性まで感じられるようなこの世の生きた女神様とでも表現しようか、そのような先生であり憧れの存在であった。
その英語の先生の言葉で今でも忘れない言葉が3つある。
「英語を勉強するためにはその3倍の量の日本語を勉強しなければならない」
「英語の理解を深めるには英単語を英和辞典で調べるのではなく、英英辞典で調べなければならない」
「生徒のあなた達は皆私の子供同然と思っている」
それらの言葉だった。それを約40年経った今でも私は忘れない。
まず「英語を勉強するためにはその3倍の量の日本語を勉強しなければならない」という話だが、まさにそれを思い知らされたのが、私自身が英語講師として働き始めた頃のことであった。
大学生くらいの学生になると英語の勉強のために英字新聞などを読もうとする者が出てくるが、そもそも日本語の新聞が読めない者が英字新聞を読めるはずがない。
日本語の新聞を理解するためには政治経済や時事関連など基礎知識を持ち合わせなければその言葉の意味すら分からない。ましてや英字新聞など言うまでもない。
次に「英語の理解を深めるには英単語を英和辞典で調べるのではなく、英英辞典で調べなければならない」について。
私たちは英語にはそれに対応する日本語があると考えている。
しかしながらそれは大きな間違いである。
英語にはない日本語が存在するのだ。
分かりやすい例でいうと食事前の「頂きます」や、帰ってきた時の「ただいま」「お帰りなさい」など。
無理やりこじつければ「ただいま」は「I'm home」などと言い換えることが出来るが、あくまで無理やりである。
ましてやビジネスの最前線での通訳となれば困難を極める。自分自身の過去の国際舞台での仕事を振り返ってもよくその通訳の仕事を乗り切ってきたものだと過去の怖いもの知らずで挑んできた自分が不思議なくらいだ。
これに対応できるのは徹底的に英英辞典(英単語の意味を英語で説明されている辞書)で調べて英語の意味を英語で理解していくしかその方法はない。頭の中で日本語に変換している時点で駄目なのだ。
そして最後の「生徒のあなた達は皆私の子供同然と思っている」だが、なかなか心からそう思える教師はいないのではないかと思う。
口先ではそのように言える者もいるかもしれないが、実際にそのように想い、生徒に関心を持ち、心から我が子のように心配し接することが出来るだろうか。
しかも幼稚園児や小学生ではなく、高校生にもなった生徒を見て30歳の先生がそう皆の前で堂々と言い切れるということが当時の私にとっては衝撃であった。
以上の3つであるが、
それらの話が自分自身が教壇に立つようになり、同じく英語を指導する立場になり、また国際ビジネスの最前線に立ちネイティブの欧米人と接することにより実感として分かるようになった。
生徒とは未熟な存在でありながら生徒にとって「先生」という存在は特別であり、生徒は子供ながらに違った視点で大人を見ているように思う。ある意味純真な子供にはごまかしは効かない。
そしてその場では分からなかったが、10年、20年、30年経ってそれがやっと分かるということもあるのだと思わされる。
それは子供から大人に成長し、自分が親の立場となって初めて親の言葉や教え、親の苦労が理解できたというものに似ているのかもしれない。
「分かる」というのは決して頭だけではなく、感覚として感じ身体全体で理解するということなのかもしれない。
高校時代の憧れの先生を思い出しながらそれを考えていた。
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