2~3日前のテレビで和歌山の”象の背”の絶景を見て、色んな
思い出がよみがえりました。
 50年ほども前に父親を連れて、嫁の姉婿さんの案内で
大台ケ原へ行きました。そこにも”馬の背”が在りました。
やはり象より少し小さいですが大きな岩の山でした。馬の背を
歩きますと両側は崖っぷちで、父は歩いて先端まで行きましたが
私は両側にスベリ落ちる恐怖感から這って行きましたが恐ろしく
て引き返しました。
 姉婿さんは大台ケ原の下の奥に在る”三之公”と言う5~
6軒の集落で生まれ育ち、父親は猟師でした。珍しいほど
大きなテンが獲れた時には、剥製にし首巻に加工して嫁に
贈ってくれました。
 私が初めて三之公を訪れた時、ランプ生活と聴いてたのに
台所に蛍光灯が在り、尋ねると三之公川に小型の水力発電機を
設置し夕暮れから3時間配電するとの事でした。姉婿さんは
大台ケ原展望台の造築工事も手伝って来ましたので、
”月夜の晩には展望台から富士山が見えるんだぜ”と自慢
して居ました。その他嫁の実家近くに在る公民館前広場で
大台ケ原で獲った月の輪熊を解体するのを見た事があります。
生まれる前の子熊2頭を腹から取り出してました。そして
連れの熊も明日,獲りに行くかと話し合って居ました。
 車から川原で遊ぶ猪の親子も見ました。夜の帰り道で前を
走る尾の長い銀キツネが居ました。ライトの明かりで山手か
川に逃げ込む細道が見にくいのか、しばらく一緒でしたが
車の速度を落とすと、山手の方へ逃げました。




 平成28年6月6日の朝刊で大仏鉄道の記事を見て,大変
懐かしい気持ちに浸りました。勿論,大仏鉄道を知りません.
でも母親が大和ノ国添上郡東山村より大和ノ国添上郡奈良
村へ嫁いだ時には,嫁入り道具を運ぶのには東山村から
笠置駅へ(牛車で?大八車で?)汽車で大仏駅に着き、奈良村
まで大変だったのよとの話でした。総桐の長もち箪笥も在り
ました。で昔に加茂駅から大仏駅跡地まで鉄道に添った道を
単車で走った事があります。当時の黒髪山はトンネルが在り
此れが大仏鉄道のトンネルだと思って居ましたが、黒髪山
トンネルは車両用の道路でした。勿論、信号も無く1車線
でしたが高低差の無い直線道路なので進入時には反対出口迄
確認出来たので、お互いに入り口で待機出来たのでした。
奈良阪町から黒髪山頂を通り法連町へも行きました。確か
奈良ドリームランドが出来た時に黒髪山は切り開かれて
トンネルは広い道路となり、山頂の道路は長い橋と成り
ましたが細くて車は通れませんでした。
此の黒髪山トンネルの東の方、奈良阪町に大仏鉄道の
小さなトンネルが残って居ました。

 終戦後の日本は敗者の渦中に巻き込まれて居たのだった。
 敗戦国日本に、米兵や支那人や朝鮮人が自由に来日して
思う存分に勝手な行動を繰り広げて居たのだった。
 奈良では垂仁天皇陵の近くの農機具小屋で、米兵に連れ
去られた女性が暴行を受け、無残な姿で発見されたのだった。
{昔、男性の陰部をハサミで切り取る”阿部定事件”が
ありました。残念ながら此れと同じ事件を起こして見せしめ
の警告とでも、しなければ他に効果のある再発防止方法は
無いのかな?}他に
支那人や朝鮮人は多勢で建材店や材木店に堂々と侵入して
建材を略奪し他人の土地に勝手に新築したのだ。 
チャイナタウンや朝鮮人町の誕生だ。
 娘を殺され、建材を略奪され土地を略奪されても敗戦国人
だから、日本人は泣き寝入り状態の我慢だった。
此れが戦争の勝者・敗者の現実なのだ。
蛮行は日に日にエスカレートし度を過ぎたので、さしもの
GHQ(米軍総司令部)も彼らは、戦勝国人では無く単なる
三国人だと決めつけ規制に乗り出したのだった。奈良でも
3箇所ほどの朝鮮人町が出来,そこから超有名な一流歌手が
誕生したのだった。