今日ちょっと会話に出てきたので。

なにか、カインとアベルでは、どちらが悪いのかと。

 

人類最初の殺人、もちろんカインがアベルを殺したわけです。

 

こういう話が嫌いな人は、読み飛ばしてください👍

 

 

 

なぜ殺したかと、神がアベルの捧げもののみ心に留められたからです。

 

カインは普通に実りを捧げました。

アベルはよく肥えた初子の畜産物を捧げました。

 

なにが違うのか、どちらも捧げているのに、と。

 

 

違うように思います。

 

愛の問題と思います。

 

神を愛しているなら、神が喜んでくださるなら、

愛するものに良いものを捧げたい、とその心持ちから、

初子を選び、かつ肥えたものを選び、最上を選ぶアベル。

 

感謝を感じます。




 

得たものを、神に帰するかのような感謝から、

最上のものを選んだ感じがします。

 

 

一年の収穫物から、ただよくもなく悪くもなく、

あたりさわりのないものを選んぶのと。

 

心持ち、愛の度合いが違うと思うのです。

 

 

 

貧しい人が有り金で賽銭をはたいたら、誰よりも多く捧げた、と

なります。子供にやっとできるかどうかのことです。

 

お金で苦労しているのに、さらにそれであり金をはたくわけです。

 

お金持ちは、お金という苦労していない分野のものの、さらに一部だけ、あげても相手への愛が違います。


子供には、死ぬときに全部捧げるでしょう。

 

神にとってはすべて自分で作れるのですから見てくれや物理的な量はどうでもいいわけです。

 

 

なので、表の物よりも、

そこに込めた心意気、覚悟、

愛と感謝の問題となるわけです。

 

 

何か利己的な、

自分を損なわずに、や、

良いとこ取りで良いことだけしよう、

自分のすごさをみせよう、など

いろんな思惑を超え、

ただ愛と感謝を表現しなければなりません。

 

神は、アベルのそこに答え、

その愛に反応されて、

言葉をかけることができたのかもしれません。

カインに言葉をかけるのは、

宇宙の法則からすると無理だったかもしれません。

 

 


たくさん収穫物があるからこそ、

自然と一番尊いものを返したり、


毎年のルーチンでも、初めてのように

毎年心からの感謝を捧げたり。


またはすべての時間や持ち物、

思考を奉仕に捧げなければならなく

なるかもしれません。


これが、狭き門なのかもしれません。

 

 

 

愛しているから、なるべく喜んでもらいたい、

感謝を捧げたい、と思ったら。

 

神はそこに反応なさるのだと思います。



私には、才能もお金も何も無いけど、どうしよう❔

そう思ったら❔


ごめんね、神様。

でもただ愛していますと。


あなたが与えてくれた身体、声、

大切に感謝します。


それで良いのだと思います。





 

神は、愛と捧げたものに、一番大きな愛を

一番欲しい形で、返してくれます。

 

あきらめずに奉仕をすれば、

 

愛しているよ、と誰も傷つけることなく、

一番欲しい、感動する形で、きっときっと伝えてくれます。

 

 

一番良いものを捧げるのは、

すべてを作り出すことのできる、神への

信頼の証でもあるわけです。