だめだこりゃ

 

いかりや長介の名言|だめだこりゃ &オイッス継続から生まれる伝説 | いろいろブログ

 

多分私たちの世代には通じると思うのですが、

「だめだこりゃ」って、ドリフの大爆笑のコントのオチで、いかりやさんがいつも言ってましたよね〜。

 

 

コース(奇跡講座・奇跡のコース)の学びと実践を通して、できない自分を目の当たりにするとき、私たちは今自我なので、当たり前のようにそんな自分を咎めたり、もっともっとできるようになろうと頑張ってしまいます。

 

 

しかし、できない自分を目の当たりにした時、それをなんとかしようとせず、素直に「だめだこりゃ」、「無理だわ〜」と「そんなことできないわ〜」「そんなふうには全然思えないわ〜」と認めるなら、その時、少なくとも私たちは「自分に正直になっている」と言えます。

 

 

自分に正直になるとは、内側を向いて、自我を明らかにしている時であり、戦いをやめた時であり、少なくとも聖霊の方を向いている時だと言えます。

 

なので、

 

 

「自我のままではだめだこりゃ」となった時こそ、「それは全部嘘だからだいじょうぶだぁ〜」と言っている聖霊を招き入れるチャンスだと言うことができます。

 

 

なぜなら、「だめだこりゃ」「こりゃ無理だ〜」となるということは、それまでは全然「だめだ、無理だ」とは思っていないからです。

 

つまり、「私はできる!私はわかる!」(=私は正しい!)と主張しているということです。

 

 

それは、神と(自分自身と)戦っていることになります。

聖霊を拒絶し続けていることになります。

 

そうしている限り、苦しみ続けることになるのです。

(実際は苦しみ続けていたいのから正直にならないのですが、、、)

 

 

しかし、「自我のままではもう二進も三進もいかない…だめだこりゃ」と正直になる時、

 

それ(個人の私が解ろうとすること、個人の私がなんとかしようとすること=この世界で幸せになること)が「無理だ」とわかったということは、

 

少なくとも「私はわかりません。私はできません。」ということを認めた瞬間であり、

 

それは戦うことは自分にとっては不利益だと認識した瞬間であり、

 

それは聖霊と共に見ている瞬間とも言えます。

 

 

つまり、世界や自我から離れて、聖霊の方向を向いていくには、「だめだこりゃ」という気づきから始まっていくことになるのです。

 

 

なので、「自分に正直になる」とは、自我(個人の私)にとっては非常に屈辱的なことでもあります。

 

だから、私たちは正直になりたくありません。

どこまでも自我を隠蔽・否忍して、いいカッコしぃ(正しさ、清らかさ)をし続けたいのです。

 

 

でも、実際には隠すことなどできず、隠すものすらないのですが、それも全くわかっていないのです。

 

 

そんな私たちを、聖霊と共に見るなら、「頭隠して尻隠さず」の方が安全で万全だと信じきっている自我(=自分)を見ることになります。

 

 

それを見るなら、どこまでいっても狂っていて滑稽な自我である自分を自覚して、

 

  いったい何やってんだ⁈

 

となり、

 

 

だめだこりゃ

 

 

となるはずです。

 

するとその時初めて、

 

 

それは全部妄想だからだいじょうぶだぁ〜

 

という志村、いえ、聖霊の声を聞きいれようとなるはずですよね。笑

 

 

 

だめだこりゃ」「だいじょうぶだぁ」|さとなお(佐藤尚之)|note | ドリフ, 佐藤, リーダー

 

 

 

 

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