だめだこりゃ
多分私たちの世代には通じると思うのですが、
「だめだこりゃ」って、ドリフの大爆笑のコントのオチで、いかりやさんがいつも言ってましたよね〜。
コース(奇跡講座・奇跡のコース)の学びと実践を通して、できない自分を目の当たりにするとき、私たちは今自我なので、当たり前のようにそんな自分を咎めたり、もっともっとできるようになろうと頑張ってしまいます。
しかし、できない自分を目の当たりにした時、それをなんとかしようとせず、素直に「だめだこりゃ」、「無理だわ〜」と「そんなことできないわ〜」「そんなふうには全然思えないわ〜」と認めるなら、その時、少なくとも私たちは「自分に正直になっている」と言えます。
自分に正直になるとは、内側を向いて、自我を明らかにしている時であり、戦いをやめた時であり、少なくとも聖霊の方を向いている時だと言えます。
なので、
「自我のままではだめだこりゃ」となった時こそ、「それは全部嘘だからだいじょうぶだぁ〜」と言っている聖霊を招き入れるチャンスだと言うことができます。
なぜなら、「だめだこりゃ」「こりゃ無理だ〜」となるということは、それまでは全然「だめだ、無理だ」とは思っていないからです。
つまり、「私はできる!私はわかる!」(=私は正しい!)と主張しているということです。
それは、神と(自分自身と)戦っていることになります。
聖霊を拒絶し続けていることになります。
そうしている限り、苦しみ続けることになるのです。
(実際は苦しみ続けていたいのから正直にならないのですが、、、)
しかし、「自我のままではもう二進も三進もいかない…だめだこりゃ」と正直になる時、
それ(個人の私が解ろうとすること、個人の私がなんとかしようとすること=この世界で幸せになること)が「無理だ」とわかったということは、
少なくとも「私はわかりません。私はできません。」ということを認めた瞬間であり、
それは戦うことは自分にとっては不利益だと認識した瞬間であり、
それは聖霊と共に見ている瞬間とも言えます。
つまり、世界や自我から離れて、聖霊の方向を向いていくには、「だめだこりゃ」という気づきから始まっていくことになるのです。
なので、「自分に正直になる」とは、自我(個人の私)にとっては非常に屈辱的なことでもあります。
だから、私たちは正直になりたくありません。
どこまでも自我を隠蔽・否忍して、いいカッコしぃ(正しさ、清らかさ)をし続けたいのです。
でも、実際には隠すことなどできず、隠すものすらないのですが、それも全くわかっていないのです。
そんな私たちを、聖霊と共に見るなら、「頭隠して尻隠さず」の方が安全で万全だと信じきっている自我(=自分)を見ることになります。
それを見るなら、どこまでいっても狂っていて滑稽な自我である自分を自覚して、
いったい何やってんだ⁈
となり、
だめだこりゃ
となるはずです。
するとその時初めて、
それは全部妄想だからだいじょうぶだぁ〜
という志村、いえ、聖霊の声を聞きいれようとなるはずですよね。笑
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