コースは他の霊性の道の教えと同じではないですか?
コースは、「結局は他の霊性の道(その方が過去に学んできたスピリチュアリティ)と同じですね。」と言われることがあります。
確かに、幾多数多の非二元の霊性の道、悟り・解脱の教えを説いた道の一つにすぎないですし、その内容を学んでみても、概念的には同じようなことを言っているように感じるでしょう。
なので、せっかくコースに出会い学んでいても、しかも何年も真面目に学んでいたとしても、実践していかないと、他の霊性の道との違いや、コースの非常に実用的な素晴らしさにも気付かずに辞めてしまうことになりかねません。
しかし、ちゃんと学んでいくと、コースの特徴と言える教義とその実践方法は、心理学を用いているため、他の霊性の道とは真逆の教えとなっていることがわかるでしょう。
このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、確かに目指している。(奇跡講座テキスト序文1:6.7)
コースは、確かに概念的には他の非二元の霊性の道と言っていることはほぼ同じだと言えます。
しかし、コースは他の霊性の道とは違い、
なので、やりたくなくて当然だし、やめたくなって当然だし、その
だからコースから離れることも、実践せずに学び続けることもある意味仕方
つまり、「それでもやるかやらないか。。。」
ここに尽きるといえます。
そして、そのための道筋ははっきりと明確に示されています。
だからこそ、目的が非常に重要になってきます。
コースを学び実践する目的とは?
何のためにここ(幻想の中)にいるのか?
何のために学び実践するのか?
自分は本当は何(何者)なのか?
ここを見失えば、
探せよ、されど見つけることなかれ
(奇跡講座テキスト第12章Ⅳ.4 .4)
自分はいつまで答えのないところに、答えを探し続けたいのだろうか?
自分がコースを学び実践していく目的を明確に見据えて、自分自身に問いかけていくことは大切です。
それは、
あなたは肉体のまま苦しみながら死にたいですか?それとも、真理によってこの世界を去りたいですか?
という問いかけであり、
それは、
「自我か、聖霊か」の究極の選択を常に自覚していくわけですから、自我から見れば並大抵の道ではないので、
しかし、この「自我か、聖霊か」の究極さは頭でわかっていることとは全然違いますし、実践していかないとわからないものです。
そして、その自我にとっては究極の選択といえるのところにこそ、救い=答えがあるのです。
幸いにも、ACIM MIRACLES「聖霊の教室」のナビゲーターであるもりGさんは、妥協なくそれを実践し、生きている方(一歩先を行く神の教師)なので、私たちは道を外れることなく、なんとかここまで歩んできています。
つまり、他の霊性の道との違いや、明確な帰還へのプロセスの理解、およびそのための実践の仕方(赦し)などのコース形而上学をしっかりと定期的に学びながら、自分自身に教え込み、それを生きようとしているからです。
それでも、歩みを止めて立ち止まるなら、あっという間にスタート地点に逆戻りです。
それくらい、自我の力動はパワフルですし、目覚めないためのありとあらゆるトリックが仕掛けられています。(自分で仕掛けている)
なぜなら、真の自己である神の子の創造の力と同じ力を使って、嘘(幻覚)を実在のものとしているからです。
それでも、目的を持って学んで実践していくなら、確実な道がここにあります。
帰還のための道筋・プロセスが、学術的に明確に示されていて、今私たちはそれを学び実践していくことができるのです。
私たちはどこかでそれを求めていたからコースに出会いました。
他の霊性の道と同じでもあり、同じではない。
学んで実践していくなら、その違いがわかってきます。
しかも全く正反対の真逆の道だということが。。。
そして、それを実践していくなら、確実にコースの教えの素晴らしさがより深くわかってくることでしょう。
オープンクラス「コースの教えからみた般若心経」開催のお知らせ。
5月13日金曜日21時〜「オープンクラス」を開催いたします。
テーマは「コースの教えからみた般若心経」です。
<参加費無料>